犀川の流下能力は、犀川大橋地点で、1230t/secと言われる。
この数字は、辰巳ダム計画書に出てくるのであるが、現在開かれている犀川水系河川整備検討委員会への県の資料にも登場し、基本高水や計画高水を計算し、決定するための基礎データである。これは本来、動かない数字である。
しかし、この数字には二つの大きな問題が隠されていた。
過去、辰巳ダム問題や犀川の治水の議論に一度も触れられたことがない。しかし、これまでの全ての議論の中でも、最大の問題かもしれない。
この解決なしに金沢の治水は考えられない。
河川管理に責任をもつ石川県、あるいは声高々に「洪水から金沢を守るために辰巳ダムの早期建設を」と訴える金沢市長の無責任な言動が浮き彫りになる。
犀川の姿を思い出しながら、読んでほしい。
その@
犀川の流下能力 1230t/sec の根拠は何か?
本当に流れるのか?
一般に、河川の流下能力は、河道断面と河床勾配で決められる。河川の状況が異なる地点では、それぞれ流下能力は違う。だから河川の治水を考えるとき河道図面に河道断面と河床縦断図を作り、様々な対策(河川改修)を考える。通常、河川全体で一番流下能力の小さい部分、ネックとなる地点を基準にして河川管理を考える。洪水はこの部分から発生する。その結果、犀川で河道が一番狭い犀川大橋地点を基準点にしているのは合理的である(と思われていた!)。
県の資料を調べていくと、犀川ダムが建設された当時、犀川大橋地点で計画高水が
615t/sec とある。犀川大橋地点の流下能力を 615t/sec と計算していたことがわかる。
大橋地点は川幅が狭く、この地点の流下能力が確定すれば、この数字が犀川全体の流下能力と見なされると一般には信じられてきた。確かに川幅をみればそのように見える。しかし、河床勾配はどうか。
昭和47年、県は犀川中小河川改修事業全体計画を策定する時、この検討を行っている。
この計画は、金沢市内の治水のため犀川ダム完成後、浅野川対策のため、浅野川と犀川をつなぐ導水路と内川ダムを計画し、浅野川の氾濫を犀川で引き受けることにした。その他の理由もあって犀川全体の流下能力を高める必要があった。これが犀川中小河川改修事業である。この時に始めて登場する基礎数字が、犀川大橋地点の流下能力=1230t/sec
である。
つまり、犀川ダム完成時(昭和42年)の犀川の流下能力を、昭和47年の計画で、単純に2倍に計画したのである。以後、単年度事業として昭和55年まで、犀川の整備(川幅拡幅、河床掘削)が進められた。現在、犀川大橋周辺から見ることができる犀川の景観がこうして作られたのである。
(見過ごせないのは、この計画に辰巳ダムの検討も含まれていることだ。しかも「辰巳ダム築造不能の場合」という計画も同時に計算されている。が、これは本稿に直接ないので別に書くことにする。)
さて、犀川中小河川改修工事は、全体計画に基づいて毎年度、区間毎に建設省の補助事業として行われた。8年を経て昭和55年に終了したと言われてる。単純に言えば8回の工事が行われた。しかし、これらが全体計画に沿ったものだったかの検証が必要であろう。それぞれの資料を検討する必要があるのだ(資料請求中である)。
この犀川中小河川整備事業全体計画書の添付図面に「犀川縦断図面」があり、大桑橋から最下流(港)までの河床掘削と堤防改修方針が書かれている。
こうした工事は、河川台帳に記載されている記録から間接的に知ることが出来る。
河川台帳:
河川台帳は河川現況台帳、水利台帳で構成されている。河川現況台帳には、水系の名称・指定年月日、河川の名称・区間・指定年月日、河川の延長、河川保全区域、河川予定地、河川管理施設、使用許可等を記載する。図面で
S=1/2500 以上の流域平面図が作成されている。水利台帳は水系・河川の名称、水利使用許可者、水利利用目的、許可水量、期間等を記載する。その他
S=1/500 の河川現況平面図、河川工作物平面図、土地整理図、求積図等が作成されている。 |
河川台帳から読み解くことが出来る河床掘削工事は、高畠地区の伏見川合流点から、上流に向かって鞍月用水堰堤までである。本来の全体計画では、海から大桑橋までの犀川下流から中流まで全体を対象としていたはずなのだ。
【以下参考/河川台帳より考察】
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「土地の掘削等の不許可区域の指定・解除」の記録を見ることで、河床掘削工事を行ったことが分かる。
@掘削禁止の指定は昭和41年、県告示430号)
A犀川大橋付近の工事=昭和45年(県告示306号)
B伏見川合流点まで工事=昭和46〜47年(昭46.11.12県告示773号)
C不許可区間の全面解除(昭49.9.10県告示589号)
=この全面解除で法島の鞍月用水堰堤まで工事を進めたことが分かる。期間は昭和55年まで。
D鞍月用水堰堤から上流は災害護岸として昭和44年に整備
(一部は昭和49年)
(付記:河川台帳の調整年月日は昭和57年12月1日)
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そのA
鞍月用水堰上流の流下能力は昔のまま
さて、次の問題に進む。
犀川の河床掘削には、技術的にも手続きの上でも解決すべき大きな問題がある。犀川中流域から取水される農業用水の存在である。掘削工事の後、用水に水が流れないと困る。各用水それぞれの水利権を侵すことなく、同意を得て、工事をしなければならない。
通常、用水は河川からの自然流下だから、取水口は河床と同じ高さに作られている。大桑橋から下流まで重要な農業用水は4本ある。上流から、鞍月用水、泉用水、中村高畠用水、大野庄用水である。
河床が低くなれば取水できないため、昭和52年、桜橋上流に三箇用水堰が作られ、泉用水、中村高畠用水、大野庄用水の取水を確保した。それぞれの用水の取水口を上流に作り、既設取水口まで導水路をつくった。
こうして河道整備、河床掘削工事が上流に向かって進められた。鞍月用水までは順調に河床掘削工事が進められたはずで、こうして
1230t/sec の流下能力が確保された。かもしれない(この数字は設計上の数字であり、計画後の実測値ではないのだ)。
さて、鞍月用水の取水口から上流はどうか。計画書には掘削するように書かれてあるのだが、実は残されたままで、手がつけられていない。河床には触らないで、護岸(堤防とは違う)を「災害護岸」として昭和44年に整備している。単に護岸が流失しないよう補強しているにすぎない。
犀川の状況を知る人は、ここまで読んでいただけると、ひらめくはずだ。
「これじゃ危ないのではないか!」
鞍月用水の上流の流下能力は一体どういう数字になるのであろうか?
単純に資料から推定すると、犀川ダム建設時の 615t/sec がその数字である。その当時の犀川の状態が鞍月用水の上流部にそのまま残されているからである。昭和55年から現在まで23年経過した。この間に土砂などが上流から運ばれ堆積も多い。当時の数字=615t/sec
と考えていいのだろうか。
1230t/sec でないことは当然であるが、 615t/sec も怪しい。これらの数字よりはるかに小さい数字になるのではないか! これは河川の状態をみれば分かるのだが、実はこの数字、誰も分かっていない。県も知らない数字である。実測をした形跡がどこにもないのである。
犀川のネックは犀川大橋ではなく鞍月用水の上流だ!
ここまで検討してきたように、犀川全体の治水を考える上で、流下能力が一番小さい場所は、犀川大橋地点ではなく、鞍月用水の上流であることが分かった。
もし犀川に洪水が発生するとすれば、城南中学校から城南1丁目付近からの越流である。この洪水は鞍月用水に沿って金沢市内中心部に流れ込む。金沢市の安全を考える基準点は、城南地区にすべきなのだ。
ちなみに、国土地理院の地図から、鞍月用水に沿って標高を並べ、城南1丁目から発生したときの洪水の流れを追ってみた。かなりリアルに洪水の動きが分かってくる。これは別ファイルにした(こちらに紹介)。
こういう重要な問題がこれまで検討されてこなかった。不思議である。河川管理者たる知事(河川課)は、何を考えてきたのか(何も考えていませ〜ん=陰の声)。
数字はコンサルタントに任せっぱなしで、出てきた数字をジグソーパズルのように数字合わせすることが河川管理だと錯覚しているのだ。
職員も、コンサルタント会社も、金沢市も……、あらゆる関係者が、辰巳ダム信仰の信者になって思考がストップしたのだ。犀川のあらゆる側面から総合的に治水対策を考える人間が一人もいないのが今の石川県と金沢市である。
さて、犀川の流下能力は 1230t/sec であると、誰もが素直に信じて、犀川水系河川整備検討委員会でも、基本高水や計画高水の議論を積み重ねてきているのだが、委員会はこの問題をどうするのか? 全ての議論の前提となる基本データに重大な疑問が出されたのだ。このまま委員会が進められていいはずがない。常識の目を持つだけでこの問題の大きさがわかるはずなのだ。
委員会は開催を中断し、再調査・新資料提出を県に求める必要がある。その上で委員会を再開し、県民、市民に対する責任を果たすべきなのだ。そういう決断を委員長はすべきである。
こうした問題意識のもとに、近く、石川県へ抗議ないし公開質問、委員会には意見書あるいは申し入れ書を提出するつもりである。
【参考:新竪1丁目と2丁目はどこにある?】
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参考までに犀川の地図を掲載しておく。
カラーは国土地理院、モノクロは県の犀川管理図である。
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