2002.10.22
辰巳ダムと町名変更と新竪町の話
新竪1丁目と2丁目はどこにある??


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新竪町は「3丁目」しかない
 辰巳ダムを調べていて、面白いことを発見した。ちょっと経過報告。
 昭和55年は、辰巳ダム建設が実質決められた年。文化財審議会が「辰巳用水の破壊もやむ得ない」と結論を出したことになっている。この結論がまったくのでっち上げだったことは、一連の資料で、情けない専門家たちの姿と共に示した。
「幻のゴーサイン」
 建設にとって最大の問題は、文化財・辰巳用水の破壊だ。文化財審議委員会をクリアーすれば、後はなんとでも言い訳すればいい世界だ。その典型的なものの一つが次の中西陽一知事(当時)の発言。
 知事は「下流のことを考えなければいけない」と言うが、後に明らかになった辰巳ダムによる「想定被害想定図」では、知事が洪水になるとする新竪町は、氾濫区域には入っていない。当時の新聞報道から知事の発言を紹介しよう。
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……犀川下流に住んでいる人たちのことを考えなければならない。新竪町は“水溜り町”といわれており、犀川を市民の安全ために、いかに守るかが大事だ。板屋兵四郎がつくったところは、県の文化財として必ず残すので納得してほしい。……
(北陸中日新聞昭和55年12月7日。辰巳の文化遺産と自然を守る会(山森青硯、中井安治、宮江伸一各代表幹事)の公開質問状に対する発言)
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 この記事をきっかけに、新竪町・水溜町の地名の由来を調べてみたことがある。「石川県の地名」(日本歴史地名体系17・平凡社)によると、元々犀川の河原であった竪町が分立して新竪町となり、一角に水溜堀があった。それを埋め立て水溜町にした、とある。
 地図で位置を確認すると、不思議なことに、新竪町は3丁目しかない。新発見だった。地元の人や郵便局の職員は知っているのだろうが、ほとんどの人は知らないことだ。
 おそらく隣接する杉浦町、中川除町、鱗町、水溜町などが新竪町1〜2丁目の予定だったのだろう。30年ほど前、金沢市の町名を一斉に変更したときに、もめたのだろう。
 このあたりは江戸時代の下級〜中級武士の住居街。武士出身者の子孫や新道建設に絡んだ「成金」が多く、発言力が強かったのではないか。町名変更に頑強に抵抗し、新竪町3丁目だけが変わり、1、2丁目は陽の目をみなかった。
 今、金沢市の再考で昔の町名が次々復活しているが、新竪町のこの話が出てもいいと思うのだ。関係者の発言を待ちたいところだ。

 ついでの話題。
 この近くに、思案橋というところがある。なぜ「思案」という言葉がついているのか? 伝えられる由来は、武士たちが、城勤めから帰る途中、ここに来て、「家へ帰ろうか、西の郭へ行こうか」と思案したといわれている。
 この「西の郭」は現在整備され、「東の郭」と共に金沢市の観光スポットとなっているが、これらの「郭」近くの神社に奉納されている多くの柄杓(ひしゃく)には底がない。働く女性たちが、子どもができないように、正確には妊娠した女性が、流産するよう祈願した――! こうした悲しい歴史を知る人はほとんどいない。

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