犀川の治水を考えるとき、これまで全く見過ごされてきたのが、鞍月用水へ取水するための
堰 である。
右岸・城南1丁目と左岸・法島を横断するようにコンクリート製の堰で、通称、油堰とか油瀬木とよばれている。
これまで、犀川の危険個所は川幅の狭い犀川大橋付近だと思われてきたが、まったく違うのである。
この鞍月用水や堰についての基礎資料を以下に紹介する。
@「鞍月用水慣行水利権届出書」
(参考:水利権の基礎知識 辰巳用水と慣行)
A「河川台帳」記載内容
(参考:河川台帳とは何か 準備中)
B「本稿 金沢市史」より抜粋
C鞍月用水土地改良区組織変更申請資料(1952年)
D堰の図面など
(石川県と金沢市に公開請求中)
参考
写真報告/鞍月用水堰の周辺
終戦直後(1947年)の航空写真
鞍月用水慣行水利権届出書
昭和42年3月30日
宛先 石川県知事 中西陽一殿
届出人 鞍月用水土地改良区 理事長 二羽甚一郎
河川法第88条、河川法施行法第20条第2項 の規定により次のとおり届け出ます。
【事業の沿革】
今から約1190年前(永延年間)犀川は石川、加賀両郡の境をなし梅雨時には常に氾濫して流域がその都度変るので、まことに困っていたが、加賀国司富樫忠頼が流脈を改めて築設し耕作の便を得たと伝えられている。今の鞍月用水も当時築設せられた中の一つであって、その後、加賀藩主が治水、墾田に力をつくし、さらに取水口を設け、城下を貫流し、お城の火除堀と称して厳重に管理せられたものである。明治42年5月、鞍月用水普通水利組合を設立、取水の為、堰枠及沈床を敷設し舟道及魚道を設け、水閘には扉をなし水害を防止し、戸板・弓取・鞍月村 田面積369町を潅漑していた。下って昭和27年5月4日土地改良区の設立認可を受け、鞍月用水普通水利組合を鞍月用水土地改良区に改組した。昭和39、40年の災害復旧工事には、従前の土土淮沈床を現在のコンクリート堰堤に改築している。
【事業の現況】
本土地改良区は角場川岸地内において、犀川から引水する取水口堰により戸板、弓取、鞍月校下一帯をかんがい区域とし、その面積は330haである。主として水稲栽培を行っており、かんがい期間は4月1日より8月30日迄であるが、そのうちしろかき期は4月20日より20日間である。
7月末及び8月には例年水が付則するので番水を行っている。非潅漑期にはm満水ではないが市中防火用水としての役目もあり、年中取水を行っている。犀川より取水した水は市中を貫流して防火用水の役目をはたし六枚閘よりかんがい地に送る。各田ではかけ流しかんがいを行なう。
【施設名】
鞍月用水、鞍月用水頭首工、鞍月用水水閘
【流水占用の目的】
かんがい、防火用
【取水口等】
鞍月用水取水口
【河川名】
犀川右岸 金沢市角場川岸町64番地
【取水口量等】
取水量は水閘のゲートの操作により調節する。取水量については大正8年4月11日付石川県指令収土第706号の命令書にて次の通り定められている。(第二条 占用の目的は潅漑用水毎秒63平方尺54を引用する)
なお七ケ用水組合において下記のように定められている。
寺津用水常水 1尺1寸
辰巳用水常水 1尺6寸
長坂用水常水 1尺5寸
鞍月用水常水 1尺8寸
大野庄用水常水 2尺
泉用水常水 1尺8寸
中村高畠用水常水 1尺4寸
【工作物及び土地の占用】
鞍月用水頭首工 右岸金沢市角場川岸町64番地より右岸
金沢市法島町迄
鞍月用水水閘 右岸金沢市角場川岸町64番地先
【工作物の構造又は能力】
材質コンクリート造
ゲート=スルーゲート 鉄製 手動巻上機付き
【占用面積】
120×15 1800m2
6m2
【行政庁の処分】
別紙のとおり
【備考】
なし
【別紙】
行政庁の処分
明治44年10月16日石川県指令収土第4772号をもって用水取入用堤許可を受け、その後、大正2年、大正6年、大正8年に更新し更に、昭和16年6月6日付石川県指令第287号にて河川法準用河川の敷地並びに河水専用維続許可を得て今日に至っている。
(昭和34年度、災害工事施行の折に更新したものとなっているが、その記録はない。)
石川県「現況河川台帳:水利台帳調書(甲)」記載内容
犀川水系 図面番号犀川5
施設名 堰
目的 潅漑 防火用
許可を受けた者 鞍月用水土地改良区
水利使用の場所 区分:堰
河川名称:犀川 種類:乙
位置:金沢市城南2丁目
取水量等 取水期間 4/20〜5/10(しろかき期)
4/1〜8/30(かんがい期)
主要な工作物 (空欄)
関 連 施 設 (空欄)
許可年月日 (空欄)
許可期間 (空欄)
変 更 (空欄)
備 考 慣行水利届出
調整年月日 昭和57年12月1日
「本稿 金沢市史」から抜粋
(昭和48年7月11日)
鞍月用水の水路
鞍月用水は鞍月一に倉月に作り、俗に御城火除堀といへり、市の南方平野町・角場川岸町の界より犀川の水を引く、其処を油瀬木といふ、幅五尺余、此辺を玄番川と称ふ、西北に流れ、角場川岸を経、主馬町・石浦新町の間を通じ、百姓町の西南より鱗町に至り、辰巳用水の分流と合す、幅二間余、此より油車を過ぎ、厩橋に至り総川と称ふ、幅三間三尺、香林坊を経、長町川岸に沿ひ、字四ツ屋に至り西に折れ穴水町に入る、此に至って北に分流するものは、玉川町・木ノ新保五番丁を経て復た二派となり、共に石川郡弓取村字上安江に入る、長サ十町五十間許、幅凡六尺なり、又本流は三構に至り、水閘(ドンド)を設けて北に分流し、柳町を過ぎ弓取村字上安江に入る、長サ三町三十五間許、幅凡3尺なり、本流は折違町に入り、北に分流するものは石川郡戸坂村北廣岡に入り、本流は更に西に○流し、木揚場字樋俣に至りて大野庄用水と合し、又分流して戸坂村字長田に入る、長サ二十六町十間余、幅凡二間、
玄場川の名義
玄場川は源兵衛川を唱へ誤れるなり、正保(紀元二三〇四〜二三〇七年)年中油屋源兵衛初めて水車を造り燈油を製せし時、従来の用水のみにては水勢弱くして水車に便ならざるに因り、新に水戸口を作りて油瀬木といひ、河名を源兵衛川と唱へたりと言い伝えたり、
|