金沢人は、なぜはっきりものを言わないのか?

一向一揆殲滅の下手人・利家と、最後の藩主・
慶寧(よしやす)
の話


2002.3.22 鬼門からのメッセージ(その10)として初筆
2002.7.1 「VIEW」誌掲載のため改定
2005.2.11 追記「一向一揆記念館」の記録映画

参考/朝日新聞「流されない」


《利家と松》
 NHKの看板大河ドラマ…。見るに耐えない。役者と脚本の悪さに辟易するのだが、「金沢の民衆にとって利家は敵だったのではないか」「金沢をつくったのは利家ではないぞ」という思いがあって、どうしても最近のお祭り騒ぎには乗れない。

《行けたら、行くわ…》
 金沢にずっと住んでいて、いつも思うのは、金沢人のはっきり物を言わないこと。熊本生まれのカミさんも、それがすごく気になる。昔、学校のPTAの副会長をやっていたとき、よく怒っていた。
 会合の案内をすると、返事が決まっている。「行けたら行くわ」
 カミさん、これを聞いてほとんどの人は出席だと解釈する。これが、欠席の返事だと私にはよくわかる。
 こうしたことが繰り返され、カミさんは怒る。
「なんてことよ! 熊本では考えられないわッ!」

 そこで考えた。何故だろう? なぜ金沢の人間は、はっきりものを言わないのか。そうした風土を作り上げたものは何か?
 二つのきっかけがあったのではないか? と、最近思うようになった。

《利家と根絶やし》
 一つは、一向一揆で根絶やしにされたことであろう。
 前田利家が信長の命で大量虐殺をした直接の下手人であった。勝利者として加賀の国の乗り込んできたのだ。そのころのすさまじい記録が残されている。「一向一揆文字瓦」とか「呪いの瓦」などと呼ばれている古びた丸瓦で、武生市郊外・味真野にある小丸城跡で発見されている(写真)。

 文章の大意は次のとおり。
「この書き物を御覧になって、後世に伝えていただきたい。5月24日に一揆が起り、前田又左右衛門尉殿が、一揆の者どもを千人ばかり捕まえられて、磔、あるいは、釜に入れてあぶり殺す成敗をされた。後世のために一筆書き留める」

◆原文

「此書物後世ニ御らんしら・・・御物かたり可有候、然者五月二十四日いき(一揆)おこり、 其のまま前田又左衛門尉殿いき(一揆)千人はかりいけとりさせられ候、御せいはい(成敗)ハ、  はツつけ(磔)、かま(釜)ニい(煎)られ、あふられ候哉、如此候、一ふて(筆)書ととめ候」


 壮烈な一揆鎮圧の記録である。
 こうした一揆鎮圧をきっかけに、江戸時代から金沢人はお上にものを言わなくなったのではないか? 十年ほど前、こういうことを感じて川柳にしたことがある。

 一揆から 逃げて子孫が 世に栄え

 根絶やしの恐怖から逃れるため、一揆から多くの門徒が逃げたり寝返ったり密告者となった。その生き残りの民衆が金沢の町をつくったはずである。現在、金沢に住む多くの人は、こうして生き残った子孫であろう。親から子へ、子らか孫へ、「お上に盾突くんではない」と言い伝えられたはずだ。こうして風土ができあがったのではないか、と。【注:追記 一向一揆記念館】
 この話は誰にも納得いただけるのではないか。

 しかしこれだけでは風土まで熟成するには足りないと思う。風土を考えるには、民衆の側からだけでなく、対局にいた支配者(武士)の側の歴史的事情も検討しておく必要があろう。


《幕末と加賀藩》
 最大の外様大名として歴代の藩主は、常に幕府へ気兼ねしたことは有名なことであるが、これにも増して、あるきっかけがあったのではないかと考えている。

◆前田慶寧
 幕末動乱を経て明治になるが、加賀藩から一人も新政府に参加していない。勤王派といわれる武士は加賀藩にいなかったのか? 実は、藩の中枢にたくさんいたのである。それどころか、最後の藩主・前田慶寧(よしやす)自身が勤王派だった(写真)。


◆加賀元治の変
 幕末・維新の慶寧と加賀藩の動きを検証しておこう。
 一八六四(元治1)年、京都で蛤御門の変(元治の変)が起こった。勤王の長州藩士が会津や薩摩の藩士と闘い敗北し、これがきっかけで幕府による長州征伐が始まったのだが、この直前まで、慶寧は世継ぎの身分で京都の加賀藩邸にいた。攘夷論と開国論で揺れる中、攘夷の立場で長州の代弁者として幕府に建白書を出してもいる。側近の家臣達は、桂小五郎など長州勤王派と通じ、天皇を近江海津(加賀藩領=現マキノ町)へ移し共闘する密約も交わしたといわれる。藩の保守派・大老などは、慶寧や側近の動きをやめるよう強く進言。藩内は二派に別れ混乱するが、慶寧は一貫して尊王派側近を守り大老たちを諫めている(ちなみに、京都の加賀藩邸と長州藩邸はすぐ近くである)。

 しかし、長州藩士の決起が敗北し、幕府から、慶寧の京都退去を求められ状況は一変する。藩はこの直後、慶寧側近の勤王支持派四十名近くを処刑(打ち首、生胴、切腹…)する。こうして加賀藩から勤王派は一掃された。維新四年前の事件で、加賀元治の変と呼ばれている。

◆長州と加賀
 長州藩では、この事件で佐幕派が復活するが、翌年には高杉晋作など勤王派が藩の実権をにぎり、幕末動乱へ突き進んでいった。京都を舞台に、大政奉還、明治維新と劇的な数年を経て、おそらく加賀藩のすべての藩士は、四年前の事件を振り返り、無念の唇をかんだのではないか。多くの藩士の心をよぎったのは四年前の事件であったはずである。犠牲者の親族筋、切腹や打ち首の命を下した藩の中枢部、血に手を染めた「同僚」たち、そして慶寧の思いは如何なものであったか。

◆初代加賀藩知事
 薩長中心の明治新政府は、金沢藩知事に任命したのが慶寧である。元勤王派だった「経歴」を評価された結果だと思われるが、本人にしてみれば、数年前の「不覚」という重い荷物を背負っての辛い赴任だったはずである。犠牲者の元側近たちへの懺悔の思いでいっぱいだったのではないか。慶寧の心の重さが「職員」全体を支配したであろう。そう思うのだ。

◆慶寧の福祉政策の源泉
 慶寧自身の言葉は残されていないが、慶寧が行った仕事として、卯辰山開拓、貧民救済のための撫育所や養生所(病院)設立、キリシタンに対する温情的な政策などがあげられるが、彼のこうした福祉政策は、加賀元治の変と無関係ではないと思うのだ。

 以上のように、支配者側と民衆側の歴史が一体となり、ものをはっきり言わない金沢特有の風土を作っていったのではないか。

【一向一揆メモ】

 十年ほど前まで、一向一揆研究会なるものがあって、様々な資料を掘り起こしていたが、中心となっていた人の他界で活動が停止しているようだが、ここに前田利家と一向一揆終焉の様子をメモしておく。

 京都を中心とした応仁の乱が終るころ、一四七四年に加賀で蜂起する一向一揆は、一進一退しながら次々に能登、越中(富山)、近江、越前(福井)へと拡大していく。

 一五五九年、信長は桶狭間で今川義元を破り、一気に全国制覇の一番手に躍り出る。同時に、最大の敵・石山本願寺門徒を中心とする一向一揆へ闘いを挑む。

 一五七五年、越前の一向一揆は信長軍に鎮圧され、五万人以上が虐殺されたとされるが、翌年石山で再挙兵する本願寺衆に呼応して越前でも一揆が再燃する。「呪いの瓦」が刻まれたのは、この時の様子である。

 信長の一向一揆壊滅作戦全体の中でも、越前の衆に対する弾圧は、凄惨を極めている。

「兵たちはもともと無道、不仁の連中であるから、民衆は申すに及ばず、神社や仏閣なども一宇も残さず焼き払い、山々の嶺々、山々の木陰、岩の隙間までも探索し、山林に逃げた一揆どもの女・子供・老人に至るまで、刺し殺し、斬り殺し、あるいは手足に薪を結んで火をつけて焼き殺し、穴を掘って生き埋めにした」(『朝倉始末記』)

 一向一揆研究者の辻川達雄氏は、越前での特別凄惨な弾圧の理由を次のように言う。

「信長の越前の次の目標は、加賀・能登・越中にあったことは明らかであり、さらにその意中には、上杉謙信との対決も秘められていたことであろう。その場合の作戦基地としての越前には、完全無欠な平定が必要であった。一方越前の一向一揆においては、他に類例をみない激越な反本願寺抗争が展開されている。門徒の示した反領主的抵抗が、父祖伝来の宗教的尊厳に対してまで、展開されたという事実、越前人のバイタリティーに対して、越前の完璧な平定を指向した織田信長が、より警戒心を深め、恐怖心を感じたことが、裏返しとなって、徹底的大弾圧の指令に結びついたのではかなろうか。」(『織田信長と越前一向一揆』)

 石山本願寺は、信長による「政治からの決別」を条件に存続を許され、一向一揆は収束していくが、加賀の一向一揆は本願寺に逆らい、鳥越砦に立てこもり終焉を迎えるが、落城の後も対岸の河内村の谷でゲリラ闘争が続けられた。
 手取川の河原で処刑が続き、川は真っ赤に染まったと伝えられる。

 石川県の造園業者の話によれば、手取川でとれる鉢巻石とよばれる美石は、今でも「恨み石」として庭石には使わない。


【追記 2005.2.11】――――――――――――
「一向一揆記念館」の記録映画
旧・鳥越村に「一向一揆記念館」がある。様々な資料が展示してあり、視聴覚室には記録映画(ビデオ)を上映している。
この20分ほどの中で、突然1分ほど音声が切れる。別にトラブルではない。よく見ると、画面には「恨みの瓦」だけが映り、解説がない。
つまり、前田利家の一向一揆弾圧の事実を視聴者に知られたくないようにしてあるのだ。
おそらく、偉〜い人の検閲に引っかかったのだろう。
検閲官捜しを、誰かやってくれないだろうか?


             (渡辺 寛 わたなべ・ひろし ナギの会代表)