1970年撮影(中田氏)
以下の文章(小論文)は、1995年に開催された「第6回世界湖沼会議霞ヶ浦'95」のために、北間町在住の中田氏のオリジナルの文章をもとに、渡辺が規定の「論文形式」にまとめ、栗原氏が監修したものである。
北間町は、かつて石川県唯一のオニバス自生地で、地元で農業のかたわら、オニバスに興味をもち、観察と栽培に努力し、数年の栽培実験を経て、ほとんど100%近い発芽を見たという中田氏の貴重な記録である。
日本各地で時々、開発のため農地が掘り起こされ、一時的に放置された場所でオニバスが自然発生して驚く例(1997年・草津市など)もあるが、すでに環境はオニバスの生育に適しておらず、保護池として整備しても発芽しないことが多い。
オニバスは、石川県で既に絶滅が宣言され、姿をみることはないが、埋め立てられた用水の底にはオニバスのタネが休眠して生きていることが考えられる。
中田氏の当時の自生状況の観察や栽培法を元に、オニバスのタネを掘り出し、再生繁茂させようというのが、ナギの会の中心活動である。
場所の特定のため、埋め立て前の地図や、米軍による航空写真(1947)などを入手し、現在の地図上に写した。農地所有者や稲作栽培者の了解を得ればタネ捜しは実行できる状況までこぎつけている。
なお、論文の最後にある、「残された20粒のタネ」は発芽を試みたが、長年の空気中での乾燥で既に死んでいた。(渡辺 寛@ナギの会)
◆専門家からのオニバスについての情報は、本多郁夫先生のサイト「石川の植物」に詳しい。お薦めサイト自然編で紹介しているので参考にしていただきたい。
【世界湖沼会議への提出小論文 1995】
河北潟周辺に生育していたオニバスの生態と
その再生の試みについて
キーワード;オニバス,絶滅危惧種,水草,人工栽培,河北潟
発表者;中田 上(発表者),渡辺 寛,栗原智昭(所属;水葱(ナギ)の会)
連絡先;金沢市北間町は7番地 渡辺寛 TEL237-7547 FAX
238-0059
要 旨:
稲の収穫時期にオニバスは大きな葉を広げる。稲を運ぶ舟が通らず、見つけ次第にどんどん採取したが、オニバスの繁殖力は強く、なかなか少なくなることはなかった。
オニバスにとって致命的大転機になったのは、1964年に計画された河北潟干拓事業と、河北潟周辺の農地整備事業である。金沢市潟津地区(現金沢市北間町)の整備は昭和43(1968)年に完成した。その目的は、物資の移動に使った舟の水路を埋め立て農地に切り替えること、農道をつくり整備することであった。大野川の底泥を、縦横に張り巡らされた大小の水路に埋め、潟津地区からオニバスが消えた。
昭和40(1965)年5月上旬、オニバスが各地で少なくなっていくことを聞き、生育していたオニバスの生態を観察、栽培、繁殖させることを考えた。
25年前すでに、河北潟周辺のオニバスは絶滅したが、当時自生していたオニバスの生態観察の報告と、栽培法を紹介する。
私の観察した自生のオニバスと生育の条件
オニバスと私(中田)
かつて自生していたオニバスの生育地は、石川県金沢市北部潟津地区の田地約10万u(3万坪)の道路替わりに掘られた舟通りの川であった。面積は約1万u(3千坪)であった。
昭和20年9月、私は除隊し、家業の農業を継いだ。農閑期には潟や川の魚を取っていたが、川魚取りに絡んでオニバスが関わってきた。
オニバスは稲を舟で運ぶ川(船通り・用水)に群生していて、その下に魚がたむろしている事は、子供の頃、魚釣りをしていて良く知っていたが、小さい刺(トゲ)が葉の裏や茎に付いている。痛いので誰も触れるのを敬遠していた。しかし何とか魚を捕れないかと考え、水潜りし、魚の群を見ようとした所、葉の下は、茎が一本川岸より延びて水面近くを這っているだけで、その下は空間になっているのに驚いた(図1)。これは楽々と魚を一網打尽に出来る。
皆が刺で敬遠していたお陰で魚捕りを一人じめ出来たことにつけ、オニバスに親しみを感じてきた。そして関わっている内、いつとはなしにオニバスの生態や生きる条件に興味を持つようになり、いろんな事が分かってきた。
図1
オニバス自生の様子
1)流れと水草
水の取り入れ口など、流水が毎秒1mを越えるような所では生育していなかった。また深さ1mから1m50cmぐらいの沼池があったが、菱や葦、蒲のはびこっていたところでは、オニバスは生育していなかった(図2)。
2)清水が常に流入
船通りの水路には浅野川の清水が常に用水を通じて給水されていた。
3)土と周辺の植物
オニバスの群生していたのは川幅約3〜5mに掘られ、底は弓形になっていて堅い粘土質であり、川藻や草も生育しない土である。又土手や畔の無い、川と田の境(終縁イブチと言う)では、葦など稲の邪魔になるものは、人工的に取り除かれる。これが成されない所の土手や畔下の川縁では、川面に草が出て、オニバスの葉を持ち上げて破ってしまい、生育出来ない。
又葦や蒲は根が張っており、一切の草は根付けしていない(図2)。
図2
4)野鳥と水深、波と風
水深が30pより浅いと水鳥(主に鴨)が下の所まで首を突っ込み、餌を求め草やオニバスの芽を抜いてしまう。
又、オニバスの葉は、長いものになると3mぐらいの茎につながれて浮き、強い風と波の起つ所ではすぐ葉が破られる。葉の弱い植物である。
5)肥料
終縁(イブチ)より1mぐらいの稲は昔から生育が悪く、倍の肥料を与えているが、この部分にオニバスは根を張り、田からの養分を捕っている。しかし稲穂は3割から4割ぐらい実入りが良いので気にかからない。
6)発芽場所と間隔
@オニバスは川底では根付く事が出来ない。終縁の稲の所に生えるものは 稲作のため除草され、終縁の垂直部だけに生育が限定されていた(図3)。
オニバスの発芽場所は少ない方が良く、見事に乱生による共倒れが防止されている。なお終縁の垂直部の高さは約20pである。
A種子は回りを1o余りの白黄色の柔らかいものに包まれ、放出して数日水面を浮遊して、川底に沈む。
図3
私のオニバス栽培法
昭和40年(1965)5月上旬、オニバスが各地で少なくなっていくことを聞き、私が観察した上記のようなオニバスの生態に合わせた条件を人工的に作れば栽培、繁殖させることが出来ると考え、庭の池で作ってみる事にした。
1)底付ガラス円筒に土と水とを入れて種を植え、10pぐらいになった頃、池の鉢に移し替える、次の条件にしたがい育生した(図4)。
自生の条件 ――→ 庭の池の条件
@清水 井戸水で給水する
A除草 コンクリート池なので他の水草は生えない
B深さ、波 深さ60pあり、池も小さく波は起たない
C肥料 人工で与えることにする
D芽の間隔 鉢の間隔を3mぐらいにして調節
図4
1年目
粘土、準粘土、並土、半砂土、砂土……と5鉢に植え、それぞれ@ABCDと命名する事にした。
ここで注意しなければならないのは池に鯉がいることである。鉢にコブシくらいの石を敷き詰める事である。これを怠ると鉢内を鯉に掘られ、空にされてしまう。
鉢の土にはたっぷり粒状の総合肥料を混ぜてあり、1カ月に1度、直径2.5pぐらいの棒で穴を開け、肥料を入れ補給した。生育の状態は、A準粘土B並土C半砂土@粘土D砂土の順だったが、D砂土のは後に枯れてしまった。
7月になり少し肥料切れしたので、早速追肥したが遅れは挽回出来ず花は咲かなかった。
2年目
前年に準じて作業をした。
鉢の水抜き穴を5分の4ぐらい埋めてある隙間から、オニバスの無数の根がぎっしり詰まって1m50cmぐらい出ていたので穴を埋めない事にした。ここから根が出て養分を捕っている事が分かったので、普通年1度池底を掃除するが、今年は掃除を止め、底の堆積土を残す事にした。
追肥も1カ月後より半月に一回しなければならない事も分かって来た。
オニバスの葉は、一生に15枚から20枚の葉をつけ、ひと葉の寿命は20日ぐらいで入れ替わり、芽を出し、つねに4枚から5枚葉を維持していた。
8月紫色の花が咲き始め、9月には種を手にすることになった。
A準粘土が一番生育がよく、種も天然並であった。B並土C半砂土と順次小さくなり、ひと鉢2ヶの花を付け、種数は一花20個ぐらいだった。@粘土D砂土は花を付けなかった。
葉は大きいもので直径約70cmであった。因みに天然の葉の大きいのは1m20cmぐらいで種数は40から60ぐらいである。
以上が、私のオニバス栽培方法である。
付記
昭和40年(1965)オニバスが年と共に減っていき、絶滅する恐れが有ると聞いたが、その頃、学校や役場等で生育を試みる話はあったが、場所等色んな問題があり、実行されなかった。
昭和44年(1965)5月、娘が小学5年生になり、夏休みの研究課題に「オニバスの一生」を画入りで毎日書かせ提出させた。
最近では3年ぐらい前に、隣町の蚊ヶ爪町の有志が試みて見ようとしていると聞いた。2年前には、富山県の氷見市で育成を試みると新聞で見た。そして昨年12月、北間町の有志が試みようとして大きな夢をいだいている事を新聞で知り、ぜひ夢を実現して欲しいと願っている。
なお、昭和43年に栽培して採種したオニバスの種子が20粒手元にある。これをもとにオニバスの復活再生を願っている。
鬼蓮の 生態知らずば 作られず
鬼蓮の 生きる環境 有らずんば
鬼蓮と 同生草の 係わりを
鬼蓮は 独自に生きる 事出来ず
鬼蓮を 鉢植え毎年 種を取り
参考文献:角野康郎.1994.水辺環境の危機と水草の絶滅.科学.64:691-693.
我が国における保護上重要な植物種及び群落に関する研究委員会.1989.我が国における保護上重要な植物種の現状.320pp,日本自然保護協会・世界自然保護基金日本委員会,東京.
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