典型的なリゾートとして成功した由布院の背景を考えてみた。
あの世界的にも知られ、日本の代表的大規模な温泉である別府温泉の裏山の奥、由布院盆地のさびれた湯治場が、現在日本を代表するリゾート地に生まれ変わった。
別府温泉からわずかに離れた温泉が、今や年間400万人を越える集客力をもつ。何故だろうか? そのエネルギーや理念は何か?
湯布院の歴史は、現在話題となっている、「ダム計画中止後の地域振興策」や「町村合併」についても貴重な示唆を与えている。
下筌、松原ダムの現地視察の途中に一泊した由布院温泉の宿、麓屋(ふもとや)のご主人から由布院のなりたちの説明を受け、資料を頂戴した。 麓屋は松下竜一さんの定宿で紹介いただいた。宿のご主人と市民運動を通じて長い付き合いだとのこと。
「由布院温泉観光基本計画(案)」
1996.3発行:由布院温泉観光協会・由布院温泉旅館組合
この資料を宿で見ながら、納得することばかりだった。
まず、「理念編」の中に次の記述がある。
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1.由布院の観光とまちづくりのこれまでの取り組みの認識(歴史認識)
1) 昭和20年代:町の生き方を決めた由布院盆地ダム建設計画への反対
・昭和27年、由布院盆地のダム建設計画が突如として持ち上がりました。このダム建設計画は、由布院盆地内を川西、桑屋あたりでせきとめ、ダムの周辺をリゾート観光地として開発し、水没する住民には多額の補償金が支払われるというものでした。
・この計画に対し、自分たちの生活の基盤そのものを捨て去ることへの是非が、町を二分して議論されたました。これが、町の将来を真剣に考えるきっかけとなったのです。
・特に、将来、町を背負って建つ若者達、とりわけ青年団を中心とした反対運動は、その後の湯布院にとって夢や理想を現実のものとしていくエネルギーの源となったものと思われます。そして、その活動の先頭に立ったのが、湯の平村との合併後の新しい湯布院町長となった岩男頴一でした。
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戦後、国は荒廃した国土復興として、治水のために河川の改修を全国ですすめた。その施策の中心がダム建設だった。筑後川上流の下筌・松原ダムもその一つで、このダムは大反対運動にもかかわらず、建設された。湯布院の場合はどうだったのか。
その前に、地名について確認をしておく。湯布院と由布院の二つの名前についてである。
元々、昭和23(1948)年、町制移行によって、由布院村が由布院町となった。
由布院町に隣接して湯平村があった。昭和30(1955)年、二つの町村が合併して湯布院町となった。
この合併に先立つ昭和27(1952)年、突如国から由布院盆地をダム湖にする計画が持ち出された。それまでの小さな「寂れた盆地」の湯治場で生きる人たちの中で、ダム計画に対して町を二分する大論争が巻き起こった。大まかに分けると、中年以上の年輩者は、ダムを作って補助金をうけようと賛成の立場だった。それに対して、若者、主に青年団を中心にして、ダムによらない新しい町づくりを主張し動いた。
町村合併論議の中でダム問題も熱く語られた。昭和27(1942)年、由布院ダム委員会が設立され、議論が進んだ。
二つの町村は、昭和30(1955)年合併する。初町長選挙が行われた。青年団の団長・岩男頴一が当選した。彼はダムを拒否し、同時にダムによらない町づくりを推進し、保養温泉地構想を打ち出した。現在でいうリゾート構想である。
彼の打ち出したリゾート構想は、どこからきたのか?
温泉と言えば大成功している別府くらいしか思い浮かばない。しかもすぐ近くにある。別府と同じ道をいっても別府にかなわない。新しい由布院には別府と違う選択が必要だったことがまずあげられる。
それと、元々あった湯治場由布院を訪ねる「良質」な顧客がいた。関西方面から由布院温泉を愛する顧客がいたのである。この人たちの中に、世界を知っている人たちがいた。ドイツのリゾートを知っていた人たちがいたのである。その一人に雪博士で有名な中谷宇吉郎の甥・中谷健太郎がいた。
彼は大阪で映画監督をしていた。いわばインテリで、世界を知っていた。彼の人脈などの智恵が新しいリゾート構想に大きな影響を与えた。
別府と違う道の模索と、湯治場・由布院を愛する世界を知る人脈の存在。
この二つが由布院の未来を模索する若者のエネルギーと結びついた。これが現在のリゾート湯布院町を作った。
新しい町長の手法は、現在で言う、民間主導の町づくりであったことも大きい。町の予算からリゾート開発のための補助金は少ない。生活のための基盤整備などが主な支出である。
新しい温泉リゾートの姿を「産業・温泉・自然の山野をダイナミックに機能」せていくことを指針にし、「保養温泉地構想」をつくり、ソフト開発に力を入れ民間(温泉協会、旅館組合)主導でおこなわれた。
ダム断念後の国から、昭和34(1959)年、国の『国民保養温泉地』の指定を受け、町づくりが動き出した。その中心に若者がいた。「特に若い人を中心とした動きには目を見張るものがあり、後の由布院の大きな原動力と」(基本計画案)なったのである。
当時、地元ではドイツのリゾートなど知る由もない。若者達はお金を集め二人をドイツ視察に送った。当時のヨーロッパ行きは大金である。この視察で、本物のリゾートを知った。昭和46(1971)年のことである。
こうしたエネルギーは、後年次々に来る「外圧」のたびに「由布院の姿」を対案として作るなかで、次第に強固にしていった。
「外圧」の例をあげると、
昭和45(1970)年 嶺の瀬戸ゴルフ場建設問題
昭和48(1973)年 おとぎ野サファリーパーク誘致問題
昭和59(1984)年 大型会員制ホテル建設抑止
昭和60(1985)年 自由の女神論争
昭和60(1085)年代 外資系大型リゾート殺到
これらの「外圧」は、全国を巻き込み、多くの温泉町を低俗なものに変え、全国の「リゾート」を崩壊させた。由布院は独自の生き方、姿を模索して行ったが故に生き残り、全国の最優良リゾートとして花を咲かせている。
なお、中谷健太郎は、由布院の町づくり構想に参加し、「亀の井別荘」を建て、主人となった。この「別荘」は、湯布院を代表する旅館であり、由布院の理念を体現している。
以上、由布院温泉の歴史と現在の概略である。
現在の由布院は、年間400万人を越える人がおとずれているが故の、新しい問題も起こっている。また新しく建てられる旅館や土産物屋には由布院の原点を知らない人も増えているようだ。統一感を欠く地域や建物も散逸する。しかし、町づくりの原点をふまえているかぎり、こうした問題を克服するだろうと思うのだ。
ぜひ、由布院を訪ねてほしいし、歴史とかつての若者のエネルギーを知って欲しい。冒頭に書いた、「ダム後の地域再建」「町村合併」などの議論にぜひ由布院を研究して欲しいと思うのである。
追記――
金沢市に兼六園がある。一時は300万人の人が訪れたが、現在170万人ほどである。しかもこの170万人は金沢に泊まらない。宿泊は加賀温泉郷や能登である。これに比べ由布院は、山奥にあるため、訪ねる多くの人がこの地で宿泊する。
金沢市・石川県は昨年、全国都市緑化フェアを誘致した。多くの人がフェアの会場を訪れたが、兼六園の入場者は例年とあまり変わらなかった。金沢中心部の商店街の売り上げにも影響がなかった。
これは、フェアの会場を訪れた多くの人は、県外客ではなかったことを示している。金沢城址に建てられた新しい建物を見に来た地元の人たちだったのだ。
膨大な補助金でおこなうイベントの限界を示している。【2002.1.26 寛】
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