浅野川下流で堤防決壊はあるか

掲載更新 2008.9.19

浅野川下流の堤防決壊の可能性について考えている。

先の浅野川洪水で東蚊爪町の堤防でパイピング現象が発見されたことは、河川管理者である県にはかなり衝撃的なことだったようだ。
河川課の職員は「上流や中流の対策で下流まで手が回らない」と言っていたが、東蚊爪町近くの河川敷に堆積していた土砂はきれに取り除かれて広いグランド状に変わっている。
また、パイピング現象の痕跡調査のために堤防法面が広範囲に除草されていた。その刈り取られた法面をみると、それまで草の中で見えなかったパイピングの痕跡もあちこちに見える。広範囲にパイピングが発生していたことが分かる。

「突然、緑の堤防が白く変わり決壊した」
過去に遡ると、昭和39年(1964)7月、浅野川で過去最大級の水害があり、北寺橋下流200m右岸、蚊爪橋下流右岸、松寺橋下流右岸などで4カ所の堤防決壊があり、濁流は磯部、松寺、北寺、東蚊爪、木越、沖の各町を襲った。同時に河北潟からも増水して逆流、大浦地区一帯が水没状態となった。
この堤防決壊のとき、東蚊爪の堤防の下部(法尻)でボイリングと言われる現象が目撃されている。ボイリングとは堤防近くの平地から水とともに土砂が沸騰するように湧き出す状態である。当時それを見た方は怖かったと言っていた。
また、この決壊を直接目撃された方がおられる。当時中学生の K さん。この方から聞いた当時の様子は別ファイルにする(目下取材進行中)。

過去の堤防の履歴資料は廃棄されてもいいのか。
さて、過去の堤防決壊の後、その修復や河川整備はどうやって行われたか。現在に続く河川管理の基礎資料を求めて、資料請求をした。
しかし、その結果は「資料は廃棄されてありません」。住民の安全にかかわる堤防の資料が一切無い。これでいいのか!
公文書保存基準でこうした工事の資料は10年保存となっていた。この基準そのものがおかしいのではないか。工事費用や請負業者などの資料は廃棄されてもいいかもしれないが、堤防築堤の基礎資料(構造や地盤など)は、保守管理、将来を考えて本来永年保存であるべきではないか。現にダムなどの資料は永年保存扱いである。
堤防は人間と洪水の闘いの歴史を経た河川管理構造物である。決壊しないよう、築堤当時の土木技術や関係者の英知が詰まっている。決壊の場所や堤防内部の構造などが明らかになっていないと年月が経ち保守管理が必要となったとき手が打てない。
まさに、その堤防の保守管理に不可欠である履歴資料が残されていない。これはなんということか!

このページでは、浅野川下流の堤防について逐次紹介していきます。

堤防決壊の危機、パイピングの発見
◆応急対策への疑問/逆に危ないのではないか
◆「緑の堤防が瞬間白く変わって決壊した」
  ……昭和39年(1964)7月の堤防決壊の目撃談
◆公文書にある浅野川堤防資料
◆河川台帳に記載された浅野川の河川工事
◆河川管理施設等構造令と堤防
◆浅野川の水害史
◆そもそも堤防とは何か
◆堤防の構造と安全
◆堤防補強工事に必要なもの
◆浅野川下流の伏流水=ある簡易水道(井戸)工事から
◆新潟・福井水害、東海豪雨から学ぶ堤防の安全
◆パイピング現象、ボイリング現象の科学
◆浅野川下流の集落形成と築堤、変更の歴史
◆浅野川と大野川
◆河北潟干拓事業と放水路
◆浅野川と犀川一体の治水システムとは何か
◆浅野川下流の安全のための課題
◆堤防についての資料/リンク集


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