君知るや南の国


2005.4.9掲載



第二十一章

 君知るや南の国 椰子林で想ったこと

菅原 光男



 今から八年前の或る日、突然思いがけない人から電話を貰った。我々が飢餓線上をさまよい、多くの戦友を失った、かつての戦場東カロリン群島のポナペ島(現在のミクロネシンア)へ慰霊団を編成し行く事になった。部隊本部から誰も参加者がないので君一緒にどうかとの戦友からの電話だった。私は忽ち元陸軍主計軍曹に戻って快諾した。まだ当時は航空便が現在の様に整っておらず、ロスタイムも出ることだし費用も観光と異なるし、渡航手続も面倒だが、二十五年前青春を捧げて愚かな戦さに駆り出され生命を失わず帰還した男の義務として、無念怨念を残し乍ら島の草むす屍となった人達を弔う事、更にこの世の中で自分がたたかった戦場へ再び立つ等のチャンスはめったに来るものではないと判断し、自費出版にと貯えていた金をそれに当て、思い切り良く随筆原稿を庭先で焼却した。八年前だから今の様に大脳は老化しておらず、一人で悦に入る名作もあったであろうと今、後悔している。
 いろいろな手続や説明を聞き慌ただしい準備をして胸をわくわくさせ乍らグァム、サイパン経由ポナペ島への空路の旅を待ち焦れた。

 ここで話は昭和十八年に逆のぼる。私の話は主計兵としての物語り風にする。
 ぶん殴られるのが厭さに猫をかぶっていたが、決定的なのは、旧制商業の配属将校の上申書で、「性質粗暴にして雷同性に富む−不適」の烙印が私を経理部幹候の乙種とした訳で、「不適」とは士官、下士官とも兵を預けるには危険と云う意味で、今でも達観していた配属将校には不可思議な敬意を払っている。忽ち軍隊でも底意は見破られ、昭和十八年八月三十一日満期で九月一日即日応召。三十一日夜は権利を行使し帰宅すると暴れてだだをこね酔い潰れ、目がさめたら召集されていた。

 翌九月一日の動員下令には第二大隊付野戦行、臨時軍事費決算などは知りもしない、否、全く覚える気もなかったのだから事は紛糾する、どさくさまぎれに経理倉庫を破って参考書類をみかん箱三ケ押収して、兎も角装具のつけ方一つ忘れている位だから居残りの先輩下士官が総掛りで恰好をつけて呉れ出陣となった。余程にらまれていたと思う。金沢駅を歓呼の声でおくられて広島の汚ない街にたどりつき宿舎(旅館)に入った時ふと作戦将校の話が耳に入った。
 「どうも乗船は航空母艦らしい」と。
 「失敗った。これは行先は南太平洋だ。島かも知れぬ」

 私は早速椰子の木陰で踊るも一興と暗号めいた手紙を民間人に託し家族におくり、早速覚悟のほどをきめてその対策の用意にかかった。先づ年喰って学歴があり肉体労働に弱い三人の兵士達を人事掛の名簿から引き出し、私の下に転属させた。一人は最近迄実業高校の校長(物理学校卒「一人は材木会社の経理部長。一人は中学教師。現在御健在かどうか。どさくさまぎれに送状の全面書替の作業に入った。兵歴のある方は御承知とおもうが、出動の場合は兵員の五ケ月間の携行食糧、消耗品の備蓄は原則であった。当時兵站部は支離滅裂で、わいわい騒いでいるだけで騙し易い。私は携行品の倍をせしめるのに成功した。母船た搬入する私の荷物量は倍だから使役の兵隊さん、くどくのくどかないの、私は眼をつぶって馬耳東風を装おった。

 折しも九月、台風シーズンで母艦は木の葉の様に舞い、然も飛行機を塔載してあっても飛行士は一人も同乗していない、たよりない航空母艦である。兵員を収容する処は、格納庫リフトを閉れば暑苦しいし、リフトを開ければ身震いする程寒い。終いには海軍さんは面倒臭がって中途半端にリフトを半開き。そこにスコールが降って格納庫は水びたし。全員なさけないかな後から殆ど疥癬で七転八倒する始末。やっとの思いでトラック島についた。その時停泊中の「大和」「武蔵」を見たが軍艦と云うより島の様で頼もしい限りであった。
 そこで巡洋艦に乗り移り、途中「敵潜現わる」で肝を冷しながら目的地ポナペ島に到着した。一応本島の向いにあるランガールという小さな島へ上陸した。

 何が幸いになるか人間の錯覚は運命を左右するもので、この小さな島に集結したのを航空写真で撮影した米軍は、その後この小さな島にこれ位いるのだからさぞかし本島には大軍がとニミツさん(太平洋司令長官)は感違い、離れ島になった孤島で無理押しし損害をだす要はないとしモ上陸作戦は行なわれず、玉砕をまぬがれた。人間の情報判断なぞ知れたものである。それが証拠に敗戦直前に散布された伝単(ちらし)に「ポナペ島の勇敢なる十万の兵士よ降服せよ」だから笑わせる。島の総合(陸海併せて)七千人も居ったかどうか。「恐れ入りやの鬼子(きし)もじん」である。

 離島から本島へ早速御気嫌伺いで、本島に上陸したらやにわに蕃刀(撒子の実割り用)をぶらさげた島の土人に逢い軍刀の鯉口を切ったり等の秘話もあり、隊長山中万次郎少将に接見を許され(?)た。彼は開口一番「蚊に喰われるな、生水飲むな、強姦するな、以上三つを守れ」が訓辞で南洋赤道直下でながたらしい訓辞を覚悟していた私をほっとさせた。邦人町コロニャには、南洋拓殖、南興水産を始め店舗が並び活況で、常設映画館(ちょっと内地では見られない時代ものを放映)玉突き屋、寿司屋、勿論女郎屋もあり、夜空は美しく珊瑚礁も白い波を遮ぎって静かなところを作っている。平和で椰子林、マンゴロープの林がおい繁り、バナナ、パイナップルもたわわな実をつけ、花々は熱帯らしい原色の真赤や黄の花が時節かまわず咲き乱れている。島民は怠けもの(この事で後から私はえらい目に逢う)だが温和である。旧年の仲の悪さを今回初めてとも云う可き陸海呼応しての共同作戦もあり、海軍の水兵さん(四艦根拠地)も親切で「ええとこに来たなぁ」。

 喰いものは官給品(当時は米飯)の外にバナナ、パイナップル、パパイヤ、マンゴ、マンコスチン、ドリアン、シャシャツプ。どこからどこまでも利用できる椰子の実。肉は野豚、野鶏、うさぎ、鹿。浦島太郎の伝説の発祥の地だから海亀、鮪、かつを、伊勢えび、ただ鰻だけは島の迷信で誰も取らないから大蛇の如くでっかく気味悪い位。気候快適、雨量多く水に事欠くことなし。風光明眉、喰い物うまし、人情細やかの云う処なしのパラダイス。ただ困ることは十三、四才になるとパイナップルを胸にぶらさげたようなボインが流し目で誘う。うっかり引っかかると噂千里を走る。彼女等は日本人を尊敬していて一夜の情でも感激して得意相に吹聴する。それに梅毒である。これには曰く因縁がある。第一次大戦当時ドイツの軍艦エムデンがやって来た時、優秀なカナカ族の反乱を防ぐ意味で第四種梅毒フランペシャを人工製造し普及させたとかで物騒な事此の上ない。今更老妻に衒う訳ではないが、その時私はまだ童貞であった。

 私の上官は陸軍経理学校出身の俊才で、後には北国銀行の事務集中課長をして最近停年になった人だが、生憎と世事に疎い軍人精神の権化である。こうなるとすれからしの私は調法なもので融通無碍自由闊達に民間人企業と折衝して、外の部隊よりも魚獲量を確保したり、野菜類の調達を先取りしたり、機械器具を導入させたり、我が意を得たりの活躍。「現役さんよここまでおいで」で二千百三十六名の兵員の為ならと、平然と汚職し酒を汲み交し、買収し、縦横無尽の力を発揮し、後には部隊長に断わらず爆撃で瓦礫と化した学校、邦人子供の為に、ひそかに資材や大工心得を派遣して、小学校一棟を建設して部隊長の大目玉を喰った覚えもあった。山中少将率いるR隊はクサイ島へ転進し、勇猛な宝田部隊長は飢餓線上をさまよい、遂に部隊の大半を餓死させて悲惨を極めた第三部隊とミレー島へ転進した。

 その頃から戦況は段々悪化し、殷賑を誇った邦人町コロニャは爆撃で灰燼と化し、二つの教会は糧秣庫として利用したが爆撃で吹き飛ばされ、私は主計官として丸七日一睡もせずに糧秣の運搬に全力を振りしぼった。住民は奥地へと逃げこみ町は廃墟となった。
 部隊長はすでに故人だが兵卒上りで、後輩の若い将校が昇位するのに脅え、ワンマンで独善的だから常にうたぐり深く部下を信用しないが、金筋や星など一つも欲しがらない傍若無人の私とはふしぎにうまがあった。功績、人事、経理、戦術迄私の言を入れる事が多く、なんのことはない太閤に対する石田三成で、でたらめな士官を讒訴するし、気に入った士官は推賞するしという具合。いい気なもので上級尉官や隊長でも、私の顔色を見る程増長していたが、ただ二つ思い出に残る名提言をして承諾された。

 一つ、このままではもし敵が上陸したら一たまりも無いでしょう。三日で殲滅されるでしょう。だとすればそれ迄兵を飢えさせる事は出来ません。今単独大隊でなく、衛生隊、機甲隊、迫撃砲隊まで統合して二一三六名です。この大人数を喰わすことは大変です。奥地守備は一日二日安全でしょうが水際陣地はどの部隊も尻ごみするでしょう。うちの部隊は危険より、又兵力から見て又食糧確保から見て、第一線の水際を守る部隊になって下さい。海あり、平地ありなんとか喰べさせられます。

 二つ、米の飯になれた兵ですが、携行糧食は宇品(うじな:地名)でごまかし、R連隊長の指示でも比較的糧秣の現地調達の出来る現状から、缶詰を送れと云われれば乾燥野菜を送り、命令違反をしてきました。自隊だけのエゴと云われればそうかも知れません。もう糧食は底をつきそうですし、船は勿論飛行機潜水艦も来てくれる可能性はないと思います。島民にはパンの実と太郎芋を栽培させ、部隊は魚獲班を編成し、芋の栽培を管理し、さつま芋を主食とし養鶏・養豚をさせねば到底対応出来ません。陣地構築に傾倒するより食糧作りの方が先決で、兵力を二分して下さい。ジャングルを開墾して一人当り一〇〇坪を切り開きさつまいも畑にします。伐採開墾すれば煙もたち昇り飛行機の目標になり戦死戦傷が出る事は確実ですが、指揮者は鬼にならねば二千の兵の口が待ってます決断して下さい。…… 一は部隊長は旅団の作戦全議で私の提言通りとなり、二は日本人が米を喰わんで戦争出来るかと難渋したが、今後一切私に託すとの朗報を得て主計大尉の松田氏と手を握りあい喜こんだ。実は私一人が考えたのでなく、主計大尉と鳩首相談した訳だが、何せ主計大尉は現役。然も陸士出と同じ経理学校卒で僅かの間に見習士官から少、中、大尉となったのだから部隊長のジェラシーはすさまじい。万年下士官で素行不良の私ならと面をおかして進言したのである。

 何しろ「ベルギー人だのオランダ人など宣教師をためし斬りにする」なぞ吐かして下士官の私にぶん投げられた将校がいる位だから、飢えに堪え乍らジャングルを一人百坪(全員の百坪だから実際は二百坪以上)を根っこから拓くのは疲労と空腹で反撥はものすごく、私がひそかに拳銃を持っていたのは、アメリカにでなく味方の襲撃に備えてであった。ともかく糧食確保には上司ともども不退転の決意であった。

 やがてさつま芋の化物がとれる程収穫があり、年三回一人当一キロも支給できる程になったがそれまでは芋の葉粥でみるみる痩せていく将兵を見るのは、特に苛酷なノルマを課した側としては見るに忍び難い。幸い電探が優秀で、空襲の事前キャッチと警報が素早かったのと、基地発進してポ島の上空へ来襲する時間割が大体予期できる所謂サラリーマン出勤で、犠性者をだす事は無かった。次に困ったのは金である。兵隊の僅かな給料も民間支払も最終的には沖縄人の懐に入る。彼等は永い虐いたげられた歴史から、野戦郵便局等は信用しない。入金は一切合財瓶に入れて床下に埋めて了う。忽ち資金は枯渇して流通しない。やむを得ず兵の給料は郵便局振込固定方式、或いは郵便局から家庭を持つ兵の留守宅送金。この制度に私は猛反対したが送金留守宅渡しは途中海の藻屑と消え、戦後私を怨む人が居て困った。私は貯金固定化を戦況判断で主張したが、家庭を持つ貧しい兵は乏しい金を国元に送りたがった。九五%貯金帳振替、五%現金支給、その五%は酒保の配給品で巻きあげる。よく云えばモラトリアム、悪く云えばたこ部屋で、現金はなくとも通貨制度は崖の上をあるき乍ら保たれた。

 追想して見れば、兵隊が戦う事よりも自活する事を主とした方向へ躊躇せずにへし曲げた若さ(二十二才)の無鉄砲さはあったが、今にしてみれば国際的圧迫収支の関係でGNP七%を達成するために内需を省りみない現在の政治より、軍隊という権力を、さし迫ったとは云え、喰う事に転換させた私の方が一段上と自画自讃している。
 松田大尉と私が編成した自活班は、炊事、陣営具(備品のこと)消耗品、魚獲、製塩、製材、製薪、木炭、自主管理農園、廃物利用(工場のベルト等)の縫製工、煙草農園、酒の醸造、食用油、石鹸(椰子の実で造る)製造、金銭経理、計画倒れになったのは、原産の綿やカラオで布を織ることでどんごろすの袋で褌を造っている兵の為に織機製造迄漕ぎつけながら繊維工場の完成を見ずに敗戦になった位で自活全般の監視兵迄編成し順調であった。その兵員数は専門職で部隊の一〇%に達した。何のことはない原始時代の国の大蔵、通産、検察庁の長官を一人で兼ねてる様なもので、本職の事務実務はすべて身体が弱く老兵で頭の良い三人の兵を事務次官にして最初決算を教えた以外は調達自活の責任者として算盤を持つ事はなかった。

 石油だけは調達がきかず自動車を木炭車に改造したり、今はなんでもかんでも石油でなければの日本にくらぶれば「無」も又たのしであった。人間は工夫すればなんとでもなるもので、ここでちょっぴり風刺したい。連日の空爆下、鍋牛(かたつむり)の如く一途自活の道を切り拓き、万一上陸作戦が起こったらせめても最後の食事位銀しゃりを喰わせてやりたいと思った私は、戦時糧米には絶体に手を触れさせず、将校達が無心したり、厭や味を云っても断じて融通、妥協、譲歩せず兵や島民の糧食盗人にも容赦せず、厳重処分(その為米占領後、私は戦犯容疑で軍政部に呼びつけられた)して戦闘食は確保した。
 もっとも部隊長が余りにすべての物資の個人的所有意識が強いので、反抗して陸軍始まって以来であろう戦車(軽油)で夜半料亭に遊びに行って叱責をしつこく副官に云われた事もあった。何しろ戦車だから酩酊運転も蜂の頭もない、みんななぎ倒してゆくから私の生涯でこの位運転の爽快さを感じた事はないし、レーサーなど問題にならない。

 よく兵役の経歴のある人に当時の身分を明かすと「主計さんならうまい事をしたでしょう」と話されるが、それは平時で、戦地では見るのと聞くのは大違い。兵と共に飢え、かつえなければならないもので、月例身体検査毎に痩せ(肥っていると闇をしたと思われる)、食事療法(その反動で戦後喰い過ぎて糖尿病になった)もよいとこで、二十二貫の偉丈夫は開墾当時は十六貫迄になりひょろひょろしていたものである。司令部の経理検査が●々であった我が部隊の糧食確保が怨磋の的となる訳で、私は爆撃たびに被害もないのに被害有りとし払出証「乙」で現物をかくし、遂にはジャングルの奥深くかくし、倉庫を何棟もたてて口を拭っていた。

 一時はとかげ(あの声でとかげ喰うかやほととぎすなんて風流なものでなく)を喰い、ねずみを空揚にし蛸牛の塩焼(フランス料理としゃれこむ)惨状は目をおおう許りであった。私は生涯を通じ、あの事態の中で二一三六給養人員を他部隊と違い誰一人として栄養失調で殺さなかった。私が天或るいは地に召されて冥土に行けば先に逝った戦友がさっとその功を賞でてくれると想うし、私生涯の秘められた最大の誇りである。世なれた「悪」の一下士官の策略と云われようと、零細なら零細で一寸の虫にも五分の魂がある事を説明したい。

 余談だが、戦況不利の中で「海軍は駆逐艦をもって辻政信大佐を救援に赴かんとす」とした電文を受け、ガタルカナルに白骨を残し「一将功成って万骨枯る」の憤りを感じた事、「マキンタラワで下士官、兵は全滅、士官は捕虜になった模様」とか、「野戦病院長一番先に投降、戦傷患者は自決」等々。いつでも弱い低い階層が純粋である事は悲しい事となげいたものである。

 今まで功を誇り自己顕示欲のつよいのは私の悪癖(本人は左程思っていない。私の自己顕示の場合権勢欲、物欲が少ないから愛矯だと思う)で調子の良い話許り書いたが、私には終生心の傷となっている三つの話がある。

 其の一つは部隊長(すでに故人)の無類の女好きで、他の島に操業に出稼して戦乱のために帰島出来なくなった夫の留守を守る妻女(俗に渋皮むけた女とも云えよう)を妾にした。島妻と云われるもので此の女をかこうのに物資の供給が要る。米、缶詰、衣類、鍋釜、彼は相談相手が居る訳でないし表向きにすることもできないから、当然私に強請する。いやしくも物資は日本陸軍、日本の国のものである。然し自活の方針、命令、指示をだすためには、どうしても彼の花押なり印鑑が要る。私は心ならずも応じた。今でも一番腹の立つのは、女性のみの必需品「腰巻、ゆもじ」の催促で、腹心の兵にも云えずさりとて戦地にそんなものがある筈がなく不必要となったろ水器(水をこす器材)の中に在るフランネルを自分の腰よりやや太めに裁断して渡した時である、まさに屈辱な場面である。

 其の二は或る日、島中の将校が集合し会議の後会食となった。物資不足乍ら会場が我が部隊なら主計の腕の見せどころと考え魚獲班の曹長に空襲をさけて海岸で魚をとる事を依頼した。処が現役の出世欲の強い彼はどう取り違えたか魚獲の少ないのを気にして兵隊にカヌーの上から手榴弾を投げて魚を取ろうと思いついた。此の為能登出身のある兵は操作を誤り手許で爆発させ両手を失った。この報告を聞いた時私は泣き乍ら階級が上の曹長を殴った。殴っておっつく話ではない。今その兵はどうしているか私の心は痛む。

 其の三、暫らく空襲も緩慢になり平和の日が続いた。私はとって置きの小豆と砂糖を配給し、餅は原産の植物(キャッサバ)で出来るので、「ぜんざい」を振舞うことにした。各地で煙があがり兵のはしゃいだ声を聞いた。満足して悦に入っていたら突然空襲、警報を鳴らし火を消す事を指令したがせっかく煮え始めた小豆である。ジョカーヂ島では消火をためらう兵が居た。爆撃は集中した。そこで何人かが戦死した。私の折角の志が悲惨な痛根事と変った。

   ………………………………………………

 二十五年振りに島を訪れた私は、ここでは念ごろにその死を弔慰した。
 山本五十六の死、モートロック諸島トラック島を経由してポナペに艦砲射撃を加えた米軍大部隊はサイパンを玉砕させた。
 広島に原爆が投下され、ついに戦争は終結を迎えた。詔勅が読まれ、敗戦を知った。
 この時今迄憎悪の対象であった一下士官の私に御気嫌伺いの将校の来訪しきりであった。
 徹底抗戦を唱える陸士出、狼狽して結果(将校全員処刑の噂)だけを恐れる幹候上り将校、恩給はどうなると心配する古手組。

 みにくい人間のエゴまるだしで、私はすでに上官暴行四回(陸軍刑法で上官暴行は死刑、よく生きていたものだ)の強者だから遠慮せずどなりつけた。「灰燼と化した日本に帰り再建することも方法。女子達を救うのも道。今一番大切なことは指揮官として西も東も分らぬ兵を信頼させ動揺させず祖国の地を踏ませるのがお前さん達の使命でないのか? 抗戦したい奴は遠慮は要らぬ一人でやれ。兵を道連れにするな。それほど死にたい奴は割腹なり拳銃自殺なり好きな方法を選べ。阿呆!」 気色ばんだ陸士出が軍刀の柄に手を掛けた。私も寸刻を争い軍刀の柄を握った。「ふん喧嘩なら負けねえぞ」 時に私二十五才(昔流の)の晩秋であった。
 十二月二日アメリカ軍政部の追及のあみを潜ぐって先述の両手を失なった兵を援けながら浦賀に先発隊として上陸した。
 十二月二日から二十六日迄身寄りのない私(家族は全部満州で消息不明)は復員業務を完全に果たし、おし迫った年の瀬にやっと故郷の土をしっかりと踏みしめた。
 今尚、日本陸軍の兵士達の中に陸軍は決して敗けていない、敗けたのは拙劣な海軍の作戦とブーゲンビルレイテ湾暗号解読で敗戦となったので海軍が敗けたのだ、と云う人がいる。或る意味の真理はあるかもしれないが、危険このうえもない発想である。

   ………………………………………………

 金沢は厳寒であったが大阪伊丹空港から三時間十五分時差一時間でグァムに到着。ロビーで休んでサイパンに飛び、みどり児を抱き相擁して自決した断崖を訪れ花束を海中に投じた。ロイヤルホテルで泊まりサイパンの戦跡を尋ねグァムに引き返した。新婦ほやほやのカップルに追随してグァムの史跡や激戦の跡をたどりながら、蒼い海を見て二十五年振りの椰子の水を畷すりグァムのホテルに宿泊した。ポ島行飛行機を待った。
 面白い事に八年前逃亡兵として横井庄一は未だグァムの山中深く棲んで居り、その山を仰いだ筈で当時十六年かくれ住んだ皆川等はグァムの英雄だったから皮肉なものである。
 やっとポナペ島行のミクロネシア航空の便に乗り、トラック島を経由ポナペ島に看いた。
 日本が賠償で造った、海に突き出たジェット機の空港には山程の出迎え人が蛸集していた。

 到着。忽ち人の輪が私達を取り巻き「サーヂャント」と呼んで抱きつき、二十五年も年月が過ぎているのに私を覚えていた島民の歓迎は私を有項天にした。レイを一杯貰ったがあとの人の群は動こうともしない。よく聴くと、何の仕事もない島民は椰子の葉の柱だけの住いに在っても自動車だけは持っていて、暇つぶしに空港へ見にくるだけで他意はないとの事。大歓迎陣と見たのは錯覚だった訳で大笑いした。
 ウイリアムという島の実業家で村長の家に泊まった。ホテルは在るには有るが米人専用だと云う。私が髭をはやしているので一番偉いと思ったのか、私だけがウイリアム夫妻のダブルベットで寝て、当時の中隊長殿は床に敷いたゴザの上に、家人は勿論、痛快な鼻をうごめかした。江戸の敵は長崎ならずポナペ島で、あの当時威張っていた、将校の鼻をあかし溜飲をさげた。翌日戦没者慰霊祭を各所で行なった。静かに流れる読経の声、持参した線香も紫烟をただよわせ厳粛に捧げた花の色も美しく、戦友よ安らかにと祈った。いろいろな想いと、執念を残し南洋の島で無念の涙をのんで散って逝った帰らぬ人に、心よりの冥福を祈った。夫が戦死と推察される地で号泣する未亡人に私も涙を誘われた。

 さて、自分の部隊本部の位置は、自分の居住した場所は、と尋ねたが鬱蒼と樹木がおい繁りその場所を確認する事は出来ず、折から差しこむ入日の光の中に佇み、ああ俺は生きてきたのだ、との感激が私の胸をついた。
 空に雲流れ、海は蒼く、白い波頭はリーフを一呑みにする様に奔放。森は深く名も知れぬ鳥が飛び交い、すだく虫の音も情緒的で暫く我を忘れた。アメリカは占領後飛行場を造り、幹線道路を整え、電気を引き、その上で軍事基地の要素がないと判断するや、まったく放りだして原始林にしてしまった。ジャングルは行手を遮ぎり島民には産業を与えず、島民は働らく事を忘れ、ただ朝早くから映画館で古い西部劇を見るだけで世代にははっきりと断層が出来ている。老いと若さの間には全く異質な考え方があり、世界中どこの社会構造も同じものだとまざまざと考えさせられた。

 私はいろいろと島民をインタビューしたが、キリスト教の寺院(前に書いた糧食庫は一つは修復され一つは爆撃されたままであった)で彼等はこう云った。「委任統治時代の日本の方が今より生甲斐があった。アメリカは我々の事に無関心で励ましも援助もしない。叱りもしない。何にもすることがないので困っている。丁度国際連合の視察団が来ているので、もう丁度日本の統治を望む旨話すつもりだ。」と。
 彼等は日本の教育を受けた日本人よりもむしろ日本語は正確で余興に郁々逸を唄ってくれた。事実帰路トラックで国際視察団と出会い足止を喰った。彼等に訴えられた視察団は多分目を白黒しただろうと可笑しくて仕様がなかった。

 村長ウイリアムのお蔭で、飢餓に堪え爆弾に怯えた場所に佇ずむ事も出来た。椰子水を飲み果物も啖った。名残はつきなかったが戦友を弔う目的を達した。
 日本人は可成りいいかげんな事を云う。その後ウイリアムの娘(十二才)が単身東京を訪れ、又金沢の私の処まで尋ねて来た。その場限りの招待で何もむくいてやる事は出来ないのに……。

 才月は流れ、人は忌まわしい記憶を語ろうとはしない。聞く方は深刻に受け止めないが戦争とは悲しく醜悪でみじめなものである。緇衣(しい)を着て暗夜を歩く様なものだ。只、戦争のすべてを侵略とするのはどうか。第一次大戦で委任を受けた日本は今なおミクロネシアのこの島に伝えられる善政を記憶に残した。
 勤勉な日本人が島民と力を併せて築いたものを一瞬にして戦禍は潰した。味噌も糞も一緒にするな。島民は我々を敬愛し我々も島民の立場を尊重した。軍閥の野望さえなければどちらも傷つくことはなかった。
 今、私は有事立法研究にその片鱗を窺う。

  (執筆はたぶん1978年夏=渡辺注)


 菅原 光男 氏は、大正10年大連市生まれ。満鉄本社経理部会計課。軍隊内申書に「頭脳明晰なれども性質粗暴にして雷同性に富む」。主計兵として召集。上層部に自給自足を提言。ポナペ島で終戦。兵士は飢えることなく帰還。野々市町。
 この稿は、長男光一氏が編集された「鴉」(からす)という著書(1979第一刷)の一部である。光一氏は小生と同業であったが、転居され連絡先が分からない。もしこれを見られたら連絡ください。=渡辺

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