2002.10.13
大阪・道頓堀裁判
大阪地裁1976年10月19日

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所有権確認等請求事件
大阪地裁 昭和四〇年(ワ)第一号
昭和五一年一〇月一九日判決
(原告)安井多稔枝 ほか二名
(被告)国 ほか二名
代理人 篠原一幸 宝金敏明

       主   文

原告らの請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は原告らの負担とする。

       事   実

第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 原告らと被告らの間で、原告らが別紙物件目録記載の道頓堀川河川敷地を所有することを確認する。
2 被告国は原告らに対し右河川敷地を引渡せ。
3 被告らは原告らに対し、各自金九億五、二〇九万八、七一一円およびこれに対する昭和四二年四月一日より完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
4 訴訟費用は被告らの負担とする。
5 第3項につき仮執行宣言

二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
3 担保を条件とする仮執行免脱宣言

第二 当事者の主張
一 請求原因

1 安井家先祖の道頓堀川河川敷(ただし以下断り書きのないかぎり別紙物件目録記載の河川敷地および埋立部分も含み、本件川敷という)に対する所持権取得
(一)豊臣秀吉が政権を有していた天正一〇年(一五八二年)ころ、安井道頓(名は市右(左)門成安、後に道頓と号した)は、秀吉から大阪城壕を掘さくした功労に対する賞として本件川敷一帯を含むいわゆる城南の地を拝領し、右土地に対する私権(後述の所持権)を取得した。
 すなわち大正四年(一九一五年)当時の大阪府知事大久保利武が主唱して建立した「贈従五位安井道頓、安井道卜紀功碑」の碑文(甲第一号証)は公文書というべきものであるが、それには「定次後仕干豊臣秀吉実道頓父也秀吉築大阪城定次父子督工鑿壕秀吉賜地城南以賞是……」との記載があるが、これは道頓が秀吉から城南の地を拝領した事実を示しているのである。そして、近世において「拝領」とは物の「所有権」を与えられることを意味したのである。
 勿論近世においては現行法の所有権のような土地に対する抽象的、観念的な支配権、絶対的支配権、包括的支配権という特質をもつ所有権概念は存在せず制限された「所有権」すなわち「所持」とか「支配」「進退」と呼ばれる土地に対する支配権のみが存在した。そしてこの「所持」という語で示される権利が現行法の所有権概念に最も近く(以下この権利を便宜所持権という)その所持権の現実的行使が「支配」「進退」と称されていたのである。
 従つて道頓は秀吉から城南の地を拝領することにより右土地の所持権を取得したのである。
(二) その後道頓は右城南の地を開発せんと欲し、その一環として豊臣政権の許可を得て、右城南の地の中央部に運河を開くべく慶長一七年(一六一二年)従弟の安井治兵衛定清、その弟安井定吉(初代九兵衛、後に号して道卜)、親族平野藤次と協議し、右の者らの私費を投じて道頓堀川(当初は南堀川と称していた)の開さくに着手した。
 すなわち、前記甲第一号証には前掲の部分に続いて「当此時煙火漸密而城南則蘆萩叢生未民居道頓及与従弟定清及族人平野藤治等謀欲漕渠以便招来慶長十七年就役夫起工於旧里損質定清称治兵衛定吉即道卜称九兵衛定正二子也……」との記載があり、八代安井九兵衛作成の由緒書(甲第六号証)には「兄治兵衛並九兵衛其外道頓平野藤次四人申合慶長一七子年大阪南堀を秀吉申請上下弐拾八町堀立右両側地面給材木置場ニ仕置候……」との記載があり、また甲第五号証の五代九兵衛由緒書にも同旨の記載がある。これらは道頓が拝領した城南の地に道頓、九兵衛道卜ら四名が自己の費用で堀川を開さくしたことを示すものである。
 従つて、秀吉の許可を得て右開さく事業に着工した時点で本件川敷は右事業主宰者たる四名の支配する開発地として、右四名の共同所持地となつたものである。
(三) ところが右堀川開さく着工後の慶長一八年(一六一三年)治兵衛定清が病死し、道頓もまた元和元年(一六一五年)五月大阪夏の陣の際大阪城中で討死し右工事も完成に至らないまま豊臣家は滅亡した。
 ところで右夏の陣以後大阪を統治することになつた松平下総守忠明は、右開発用地を没収することなく、同年九月一九日家老奉行衆四名の連署状(甲第二号証の「以上」と題する書面)をもつて安井九兵衛道卜、平野藤次の両名に対し、前記堀川開さくの完成ならびに左右沿岸をはじめとする城南一帯の地域開発を促し、かつ道頓堀川に関するすべての支配を命じた。
 すなわち甲第二号証には「南堀河之内先年寄如有来両人ニ申付候条早々家を立させ可申候其上両人之者右寄取立申堀川之儀候間万事肝煎才覚可仕候 以上」とあつて、家老奉行四名の各署名押印がある。また五代安井九兵衛作成の由緒書(甲第五号証)には「元和元年松平下総守殿大阪御城主之節道頓堀川両側家を建てさせ候様平野藤治安井九兵衛に被仰付慶長年中に拝領仕候地面以前之通被下置下総守殿御家老中折紙被下候丹今所持仕候」と記載があり、これは徳川政権が九兵衛道卜と平野藤次に対し本件川敷を含む城南の地を従前通り所持することを許可したうえで町地の開発を命じたことを意味するのである。従つて九兵衛道卜と平野藤次が右折紙を受取つた時点で、右両名は本件川敷の所持権を確認あるいは付与されたものである。
(四) 仮に右時点で右両名が本件川敷の所持権を取得しなかつたとしても、右両名は同年一一月道頓堀川開さくを完成させた時点で、本件川敷を含む沿岸一帯の所持権を取得した。
 すなわち、江戸時代には町人が公儀(幕府)から土地開発の許可を受け、開発用地を申し請けて自費で新田なり、堀川等を開いた場合(自費町人請負新田開発事業)、開発者はその新田あるいは堀川の河川敷の所持権を原始的に取得するという慣習法が存在した。そして右両名は前記折紙により公儀の許可、奨励を受けたうえで右両名の自費を投入して道頓堀川を開さく完成させたものであるから、右両名は右慣習法によつて完成時点で本件川敷の所持権を取得したのである。
(五) それ以来九兵衛道卜の安井家と、藤次の平野家が代々本件川敷を含む周辺一帯の土地を所持し、町家を建て、道頓堀川につき、その管理等全てを支配することになつた。
 すなわち八代九兵衛作成の由緒書(甲第六号証)に初代安井九兵衛道卜は、「嶋田越前守久貝因幡守奉行之砌惣年寄役被仰付道頓堀之訳御尋ニ付由緒之趣申上候処以来道頓堀川之儀者都而支配仕明地等も有之候間随分家を建所繁昌仕候様心掛世話可致旨被仰渡右町々之年寄等も相極諸事差図仕」と記載されているが、右の「都而支配仕……」とは道頓堀川についてはその周辺地域をも含めて一切を管理支配してきたということであり、これはとりもなおさず本件川敷を含む道頓堀川全体および周辺一帯を所持していることを意味するものである。
(六) ところで平野家は元禄年間に廃絶になつたため、前記土地は安井家のみが所持することになり、以後明治に至るまで歴代安井家が右土地を所持し、(しかし道頓堀川沿岸の所持地は、たびたび家を建てて売却したため次第に減少した。)、かつ道頓堀川の管理支配を行つてきたのである。その管理、支配の具体的内容は次のとおりである。
(1) 安井家が日本橋制札場および日本橋、長堀橋の普請監督に与りかつ両橋の掃除費用その他の諸経費を堺筋の諸町および川八町に賦課し、その他川浚等の河川の管理費を道頓堀川沿岸住民に賦課し、安井勘定場を設けてそこでこれらを徴収してきた。
(2) 安井九兵衛道卜は元和元年惣年寄となつて以後子孫世襲により代々大阪南組の惣年寄をつとめるようになつていたが、この職務とは別に道頓堀両側水帳、絵図(面)、浜地帳面を保管し、右水帳に奥印してきた(平野家が廃絶するまでは平野家の当主と共に連署していた。)。
(3) 道頓堀川は初め「崩水形」であつたのを安井家がおいおい犬走石、総石垣等を築き、川を堅固にした。
(4) 延宝三年(一六七五年)道頓堀南側堤西側町裏の堤が洪水のため破損したとき修理方を堤奉行に申し出たが採用にならず、安井家の私費で修復した。
(5) 道頓堀川沿岸住民より潅漑用水の利用に対し、堀米(水年貢)を徴収し、あるいは飲料水等の供給に対し「水料」などを取得していた。
(6) 道頓堀川の両岸に「杭場」と称する船乗り場および荷物の積みおろし場を設け、杭場頭より杭場賃を徴収し、また多数の「茶舟」を所有し、物資、人などの輸送をなし、これにより収益をあげていた。
(7) 安永六年(一七七七年)幕府が大阪市内の他の河川沿岸に「築地(埋立)」した時、道頓堀川の両岸をも築地しようとして七代目九兵衛にその受諾方を照会したが、その際右九兵衛がこれを拒否した結果これが差止めになつた。
 このように道頓堀川は明治に至るまで安井家が自己の所持権に基き支配、管理してきたものであり、これらは安井九兵衛道卜が道頓堀を自費開発したことから生じた私的な権利なのである。

2 安井家の本件川敷に対する近代的所有権の取得
 前述の如く近世においては土地の「所持」という支配権(私権)が存したところ、明治時代になつて、明治元年一二月一八日付太政官布告は封建領主の土地領有を廃止して農民所持の原則を宣言し、その後太政官布告、あるいは大蔵省通達等により、地租改正作業の過程中で近代的土地所有制度が確立していつたが、その際近代的土地所有権の帰属については何らの立法もなされなかつた。従つて土地に対する近代的所有権は新たに創生されたわけではなく、それまで当該土地に対し、最も強い支配力を行使していた者即ちその土地を所持あるいは支配、進退していた者がその所有権を有するものとされたのである。
 すると本件川敷については安井家が代々これを所持し、かつ管理支配してきたものであるから、近代的土地所有制度が確立した際における安井家の当主たる九代安井九兵衛が本件川敷の所有権者になつたものというべきである。

3 原告らの家系、相続関係
 原告らの相続関係は次のとおりである。
(1) 初代安井九兵衛道卜寛文元丑年(一六六一年)一〇月一七日死亡ー二代九兵衛貞享五辰年(一六八八年)七月一四日死亡ー三代九兵衛享保四亥年(一七一九年)八月一四日死亡ー四代九兵衛寛延元辰年(一七四八年)七月二九日死亡ー五代九兵衛安永三午年(一七七五年)六月一一日隠居ー六代九兵衛安永五申年(一七七七年)七月六日死亡ー七代九兵衛寛政二戊年(一七九〇年)六月隠居ー八代九兵衛ー九代九兵衛明治一一年一二月三日隠居ー一〇代健治明治四三年一〇月二〇日隠居ー一一代寿雄明治四三年一二月一五日隠居ー一二代朝雄右一二代承継前原告安井朝雄は昭和四一年一〇月八日死亡したことにより、朝雄の長女である原告安井久、養子の同八良、朝雄の妻同多稔枝が相続により朝雄の権利義務を承継した。

4 しかるところ被告らは原告らの本件川敷(ただし埋立部分を含まない)の所有権を争うので、これの確認を求める。

5 また道頓堀川は公共性の高いものであつたから、従来私有公物として公共の利益のため私権の効果が停止されていた。すなわち、道頓堀川開さくの目的は、舟運の便に供すること、潅漑用水路とすること、左右沿岸に宅地を造成し家屋を建てること、新田畑を開墾すること、飲料水および雑用水を確保すること等であつたところ、現在においては右の目的は既に消滅したものというべきであるから、原告らは本件川敷(埋立部分を含まない)を占有している被告国に対し、所有権に基づき本件川敷(埋立部分を含まない)の引渡を求める。

6 被告大阪市は、昭和四二年三月ころ河川管理の必要上と称して道頓堀川河川敷地のうち左右沿岸に接する部分七六二一・九一平方メートル(約二三〇〇坪)を、不法にもその所有者たる原告らの承諾を得ずに埋立てて宅地に造成し、多数の沿岸居住者に合計九億五、二〇九万八、七一一円をもつてそれぞれ売却し、よつて原告らの本件川敷所有権を侵害した。そして右売り渡しを受けた沿岸居住者らは右土地上に建築物を建てるなどして右土地を占有使用しているので、これの現状回復は社会通念上不可能である。
 従つて原告らは被告大阪市の右不法行為により少くとも右売却代金相当額の損害を蒙つたものというべきである。

7 被告国と被告大阪府は、被告大阪市の右不法行為をあらかじめ承認しその計画を支持してきたものであるから、共同不法行為者として被告大阪市と連帯して原告らの蒙つた右損害を賠償する義務がある。

8 よつて原告らは被告らに対し、金九億五、二〇九万八、七一一円およびこれに対する右不法行為の後である昭和四二年四月一日より支払ずみまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の連帯支払を求める。

二 請求原因に対する認否および被告らの主張
1 請求原因第1項について
(一) 同項(一)の事実は否認する。道頓が秀吉から城南の地を拝領したという史実はない。また道頓の姓は安井ではなく成安であつて、道頓と安井九兵衛道卜との間には何らの血縁関係もない。
 原告らは専ら甲第一号証を根拠に右拝領事実を主張するが同号証の紀功碑は大正四年に道頓堀界隈の有志が建立したものにすぎず、大阪府知事は右紀功碑を権威づけるために名を出しただけであり、かつ右碑文は美文家である西村時彦が撰文したものであつて、決して公文書とはいえないばかりか道頓が城南の地を拝領したとする時代から三〇〇年後に作成されたものであつて証拠価値は全く無い。
 さらに「拝領」という用語は複雑な封建的身分関係に基づき特殊かつ多義的な意味内容をもつたものであり「拝領」が直ちに所持権の取得と結びつくものではない。一般に拝領地は処分の自由が制限され、一種の用益権が与えられていたにすぎないものであるから、近代的意味における私有地に相当する「所持」は右拝領地には成立しえないものである。
(二) 同(二)の事実のうち道頓ら四名が道頓堀川の開さくに着手したことは認めるが、道頓堀川が原告ら主張の「城南の地」の中央部にあること、道頓らが私費を投じて全工事を賄つたことは否認し、開さく着手時に本件川敷が道頓ら四名の共同所持地になつた旨の主張は争う。
 仮に道頓が「城南の地」に何らかの権利を有していたとしても、右「城南の地」とは安井系譜(乙第三七号証)にいう玉造辺の四万三、〇〇〇坪の土地を指すものと考えられ、右の土地が道頓堀川の河川敷を含まないことは明らかである。
 道頓堀川開さくは、当初軍事目的で成安道頓を新堀奉行として着手され、後に大阪市中の開発を目的として安井九兵衛道卜、平野藤次により続行完成されたものである。仮に右九兵衛道卜らが私費を投じたとしても、それは右続行分の工事に対してだけであつた可能性の方が強い。そして、秀吉の開発許可は、道頓らの堀川開さく申請に対し与えられたものであつて、これが直ちに道頓らに所持権を与える趣旨のものとは解しえない。
 また仮に道頓堀川開発用地に対し、道頓が拝領による所持権を有していたとしても、右開発許可により当然に道頓ら四名の共同所持地となることはありえない。
(三) 同(三)の事実のうち大阪夏の陣があつたこと、道頓が討死したこと、および豊臣家が滅亡して大阪は松平忠明が治めることになり、同人が元和元年九月一九日付家老奉行衆の連署状(甲第二号証)で九兵衛道卜、藤次に対し、道頓堀川の開さくならびに沿岸地の開発を命じたことは認めるが、その余は争う。
 甲第二号証の連署状は九兵衛道卜ら両名に対して単に道頓堀川未完成部分の完工と沿岸地開発の命令を与えたにすぎず、道頓堀川河川敷およびその周辺土地の所持権を確認あるいは付与したものではない。
(四) 同(四)の事実のうち、道頓堀川が完成したこと、江戸時代に町人請負の新田開発事業が行われていたことは認めるが、その余は全て争う。
 前記土地につき何らの権利をも有しない九兵衛道卜らが道頓堀川開さく完成によりその所持権を取得することはありえない。また仮に九兵衛道卜らが自費を投入したとしても、これによつて直ちに河川敷の所持権を取得するということにはならない。原告らの主張は新田開発と公共の用に供される河川開さくを混同するものであつて失当である。すなわち町人自費開発請負新田と道頓堀川の開さくとはその目的、態様、開発によつて得る報酬、開発後の受益等、重要部分において質的に著しく異るものであり、前者の例から九兵衛道卜らの道頓堀川の所持権取得を類推することはできない。現に同時代に開さくされた大阪市中の他の堀川においては、原告ら主張のような私権が認められていなかつたのである。すなわち道頓堀川開さくは極めて公共的多目的なものであり、その重要さは新田開発の比ではない。このような堀川の敷地に私人の所持が認められることは当時ありえなかつたものである。
(五) 同(五)は全て争う。
 原告らは甲第六号証に「道頓堀川之儀者都而支配仕・・・」との記載があることから、安井家が(当初は平野家も)道頓堀川を所持し管理してきたものであると主張する。しかし江戸時代「支配」なる用語は多義に使われていて、それが原告ら主張のような所持権に含まれる権能又はその行使事実の意味で用いられることもあれば、後述する町奉行の「川筋支配」にみられるような公的な管理の意味にも用いられ、また「名主」「代官」の管轄地としての意味もあり、さらに人あるいは物件の管理の意、肝煎才覚(斡旋、世話)の意であることもあつた。従つて甲第六号証の「支配」の意味は、同号証の「明地等も有之候間随分家を建所繁昌仕候様心掛世話可致」こと、あるいは甲第二号証にいう「早々家を立させ・・・万事肝煎才覚可仕」ことにほかならないものというべきである。
 また、安井家が道頓堀川を所持、あるいは支配していなかつたことは、道頓堀川沿岸に安井家所持の土地が極めてわずかしかなかつた(〈証拠略〉)ことからも推測できるものである。
(六)(1) 同(六)の冒頭の事実は全て争う。道頓堀川は後述のように開さく以来明治初年まで一貫して江戸幕府(大阪町奉行)が支配管理し、明治以降は国、大阪府、大阪市等の公の機関が管理してきたものである。
(2) 同(六)の(1)ないし(7)の事実は後記認める点を除き全て争う。仮にこれらの事実が存在していたとしても、それは九兵衛道卜の子孫が代々南組の惣年寄を勤めた(この事実は認める)ことによる惣年寄の職務(日本橋、長堀橋の掃除費用等の徴収)ないし権益(茶舟の所有)であつたり、単に安井家が道頓堀川沿岸に所持していた土地、請地としていた土地、拝借していた土地(これらの土地が存在していたことは認める)に関するもの(堀米ーただしこれは拝借浜地の転貸料であるーの徴収、破損堤の私費修復、犬走石、総石垣等の築造)であつて、これらの事実から安井家の道頓堀川に対する私的所持の事実を導き出すことはできない。また水帳絵図、浜地帳面の保管、水帳への奥印、浜地築地の拒否等は安井九兵衛道卜の道頓堀川開さくの由緒に基くものと推測されないでもないが、これらの事実は本件川敷の所持とは全く無関係である。
(3) 逆に〈証拠略〉(明治一〇年当時の安井九兵衛作成)には「第二大区五小区長堀橋筋弐町目廿番地廿三番地浜地ハ私拝借地ニ御座候処・・・」との記載があり、これは原告らの主張とはうらはらに安井家が使用していた浜地(河岸通にある家屋の家先の傾斜地、堤土手などの部分、従つて原告らの主張によれば本件川敷とともに安井家が所持していたとされる土地である。)が、安井家の所持地ではなく、拝借地であることを当時の九兵衛自身が認めていたことを示すものである。また〈証拠略〉の延亨元年(一七四四年)二月三日付の「申渡書」でも同様に当時の九兵衛自身が三郷(江戸時代の大阪北組、南組、天満組の三行政区画)浜地は「元来公儀御地面」である旨公言しており、九兵衛自身も浜地使用者として自己の使用する道頓堀川浜地の坪数を浜納屋地坪数帳に記載し、地代たる冥加金を上納しているのである。これはとりもなおさず安井家が浜地を所持していないことを意味するものであり、この事実は浜地が河川と一体をなすものである以上、安井家が本件川敷を所持していないことを示すものである。
(4) 豊臣政権が安定した時期以降に開始された大阪町内における諸堀川の開さくは、淀川を軸とする交通運輸網の一層の拡充、治水、沿岸における町地の整理発展、商業交易の促進等の目的をもち、時の政権にとつて重要施策の一つであつた。従つて江戸時代以降明治に至るまでの間「川筋支配之事」(〈証拠略〉)として諸堀川の支配管理は一貫して大阪町奉行が行つてきた。そして後述する如く、本件川敷は明治初期の地租改正事業の過程で官有地とされたのであるが、これによつて被告大阪府は明治一八年二月以降水路取締規則に基き一般河川として道頓堀川を管理するようになつた(明治維新以後それまでの間も被告大阪府がこれの取締管理に当つていた。)。そしてその後道頓堀川が旧河川法により明治三四年六月河川法準用河川に認定されて以降は大阪府知事が、昭和二〇年四月からは大阪市長が管理をし、同三二年四月一九日右準用河川の認定が解除されてからは被告大阪市が「大阪市普通河川管理条例」に基き維持管理をして今日に至つているものである。

2 請求原因第3項について
(一) 同項のうち、近世において「所持」といわれる土地等に対する支配権があつたこと、明治時代に地租改正事業の過程で近代的土地所有制度が確立したことは認めるが、その余は争う。
(二) 本件河川敷は国有である。
 すなわち、江戸時代における土地所持の権利は、原告も主張するように明治初年の地租改正の段階を経ることによりはじめて抽象的包括的支配権としての所有権に高められ、近代法的私所有権制度が確立するに至つた。ところで地租改正は全国の私有地を丈量し、一筆毎に所有者、地種、所在、面積及び地価等を定め、地租金納の制度を確立する目的で行われたものであり、その前提として全国の土地について官民有区分が行われた。そして右官民有区分の際私人の所持が認められていた土地を民有地と認めることとし、右所持者に対し地券が交付された。他方民有と認められなかつた場合には、地租改正の際官有として取り扱われることになつたのである。従つて仮に本件川敷が民有と認められた場合には明治七年太政官布告第一二〇号により民有地第三種(民有の用悪水路、溜池敷、堤敷および井溝敷地)の地券が発せられているはずであり、かつ地券台帳(後の土地台帳)に登録されているはずである。しかるに大阪市内においても地租改正がなされているのにかかわらず、本件川敷につき地券が交付された事実および地券台帳に登録された事実はない。よつて、本件川敷は前記太政官布告により官有地(国有地)になつたものといわなければならない。
(三) 仮に本件川敷が官民有区分の際民有地と認めるべきであるのに誤つて右認定がなされず、その結果官有地とされることになつた場合には、訴願法(明治二三年法律第一〇五号)および、行政裁判法(同年法律第一〇六号)により不服申立手続をとることができ、また右の場合および官民有区分の調査自体から洩れたために脱落地となつていた場合でも、国有土地森林原野下戻法(明治三二年法律第九九号)に基いて当該土地の下戻を受けることができた。しかるに原告ら先代は右いずれの手続をもとつていないのであるから、不服申立期間および下戻申請期間の経過とともに、本件川敷は確定的に国有に帰したものというべきである。
(四) そして、前述の如く、明治初年以降は被告らが道頓堀川の維持管理を行つてきたのであるが、原告らの先代はこれに対して何らの異議をも述べたことがないのであり、このことは本件川敷が原告らの所有でないことを明らかに示すものである。

3 請求原因第3項について
 原告らが承継前原告安井朝雄の相続人であることは認めるが、初代安井九兵衛道卜から安井朝雄に至る相続関係は否認する。

4 同第5項について
 原告らの主張は全て争う。原告らは道頓堀川が私有公物であつたから私権の効果が停止されていたと主張するが、江戸時代には私有公物なる概念自体が存しなかつたのであるから、右主張自体失当であるが、他方右主張はとりもなおさず安井家による道頓堀川管理支配事実が存しなかつたことを自認するものである。また道頓堀川開さくの当初の目的は前記1(二)で述べたとおりであり、また現在における道頓堀川の必要性は何ら消滅していない。

5 同第6項について
 同項の事実のうち、被告大阪市が昭和四二年三月ころ河川管理の必要上道頓堀川河川敷のうち左右沿岸に接する部分を埋立てたこと、右埋立によつて造成された土地のうち七、六二一・九一平方メートルを沿岸居住者に売却したこと、右売却代金累計が九億五二〇九万八、七一一円であつたこと、売却を受けた沿岸居住者が建物等を設置して現に占有使用していることは認めるが、その余は争う。被告大阪市は右埋立事業をなすにあたり、本件河川が公共の用に供されている公有水面であることから、公有水面埋立法二条により大阪府知事の免許を得た(その後大阪府知事は同法一一条による告示をなした)うえで適法に埋立をしたものである。

6 同第7項、第8項は全て争う。

三 被告らの主張に対する原告らの反論
1 被告らの主張は、後記認める点を除き全て争う。

2 被告らはその主張の第1項(六)、(3)において、〈証拠略〉の記載から、安井家自体が「浜地」を「拝借地」あるいは「公儀御地面」と認めていたとし、従つて安井家が本件川敷を所持していなかつたことを示すものであると主張する。しかしながら、「浜地」は河川の構成部分ではなく、河川の附属物である。そして安井九兵衛道卜らは道頓堀川開さくにより、開さく者として河川敷地とこれの附属物たる浜地の所持権を原始的に取得したのであつたが、後年(宝歴七年ー一七五七年ころ)に至り、浜地のみ公儀に収用せられて安井家の所持権が失われたのである。従つて仮に浜地が公儀の地面であつたからといつて、河川敷もまた公儀の所持地であつたということができないことは明白である。

3 同じく第1項(六)、(1)、(4)で、被告らは江戸時代道頓堀川を支配してきたのは一貫して江戸幕府(大阪町奉行)であると主張する。しかし〈証拠略〉にいう大阪町奉行の「川筋支配之事」の中に道頓堀川は含まれていないのである。仮に右に含まれるとしても、その川筋支配は元文二年(一七三七年)以降のことであるから、それ以前に安井家が取得した本件川敷を含む道頓堀川に対する所持権には何らの影響をも与えるものではないというべきであり、また元文二年以後の支配にしても、それは前述したように道頓堀川が公共の用に供される公物たる一面をも有し、私有公物として私権の効果がある程度制限されていたからにすぎず、河川敷に対する所持権の存否とは全く無関係である。いいかえると、江戸幕府が道頓堀川の川筋支配取締等をしていたとしても、それは行政主体の作用に基づく公物管理、行政的管理であり、他方安井家は所持権に基き既述の私的管理をなし来つたものである。

4 同第1項(六)(1)、(4)の事実のうち、明治以後の被告らの道頓堀川管理事実は認める。しかしながら、右に述べたと同様な意味で、被告らの道頓堀川管理は行政的管理(使用の規制取締)であつて、所有権に基く管理権の行使ではない。従つて安井家の本件川敷に対する所有権に何らの影響をも及ぼすものでない。

5 被告らはその主張第2項(二)、(三)において、本件川敷について、原告ら先代に対し地券が発行されておらず、かつ地券台帳に登録されていないことから、本件川敷は太政官布告により官有地(国有地)になつた旨、また原告ら先代が訴願法、行政裁判法に基く不服申立手続、あるいは国有土地森林原野下戻法による下戻申請手続のいずれをもとつていないことから、本件川敷は確定的に国有地になつた旨主張する。
 しかしながら、地租改正ならびに地券発行の目的は、第一義的に地租を賦課徴収することにあつたのであり、地券の発行および地券台帳は右目的に資するために設けられたものであるから、これらは土地所有権を証明するものであつたが、これを創設するものではなかつたのである(ちなみに、貢租、賦課の対象とならない河川たる道頓堀川敷地に対して地券が発行されなかつたのは当然のことである。)。従つて地券が発行されなかつたり、地券台帳に登録されなかつたことから、本件川敷が私有地たる性格を失つて官有地となるものではなく(最高裁昭和四四年一二月一八日判決同四二年(オ)第一二四七号参照)、また不服申立手続、下戻申請手続をとらなかつた(道頓堀川には官有地編入処分がなかつたのであるから当然である。)からといつて、本件川敷が確定的に国有地となるものでもない(前記最判参照)から、被告らの右主張は失当である。

       理   由

第一 原告らの家系、相続関係について、
 〈証拠略〉によれば、請求原因第3項に記載のとおり、原告らは初代安井九兵衛道卜の一二代目の子孫である承継前原告安井朝雄の相続人であることが認められ、右認定に反する証拠はない。

第二 原告らの本件川敷に対する「所有権」について
一 原告らは本件川敷に対し所有権を有すると主張し、その取得原因を、原告らの先祖である初代安井九兵衛が近世(以下豊臣政権時代および江戸時代をさす)において道頓堀川河川敷に対し「所持権」を取得したことにあるとする。
 しかしながら、現代とは社会制度を異にする(すなわち封建的社会である)近世において、現行法制下の土地「所有権」と同一視しうる土地に対する権利が存在していたかどうかがまず問題であり、さらに仮にこれが存在していたとするなら右権利がそのまま現行法の土地所有権に継承されたものであるか否か、また右の同一視しうる権利が存在していなかつたのならば、現行法の土地所有権に結びつく権利が登場し、確立したのはいつの時期であるか、そしてその時期以前の土地に対する権利との関係はいかなるものであるのか等の考察が必要不可欠であるから、まず、この点につき検討する。

二 近世の土地制度ならびに近代的土地所有制度の成立過程
1 〈証拠略〉を総合すると、次のように解することができる。
 近世における土地に対する権利は、封建的社会構造を反映して重畳的に存在し、幕府ならびに封建領主がその主体たる「領知権」なる権利と、人民がその主体たる「所持権」なる権利とに大別することができる。そのうち領知権は専ら公的な性格を有し、当該土地に対する年貢収納権、右土地に居住する人民に対する立法、司法、行政権をも含むものであつたのに対し、所持権は当該土地を現実に「所持」する権利、すなわち具体的、現実的に当該土地を支配し、使用収益する権利を意味したのである。なお近世においては「所有」なる語は殆んど用いられていなかつた。ところで右に述べたように「所持権」は原則として具体的、現実的な土地使用収益の事実と不可分に結びついているものであつた。しかしある場合にはこれが観念化、抽象化することもあつた。すなわち高請(検地帳に記載された)田畑の場合、高請人(名請人ともいう)が一応その土地の所持者であるが、右田畑に永小作人がいるときには右永小作人がその田畑に対して行使する権利もまた「所持権」と称したのであり、さらに田畑の所持者がこれを質入れした場合、質取者が右田畑に対して有する権利もまた「所持権」といつたのである。このような場合は一つの土地に対して複数の所持権が成立することになり、一方は観念的なものとして具体的な使用収益の事実とは無関係に存立したのである。また所持権は、所持の事実と密接に結びついているがゆえに第三者に対する絶対性は必ずしも承認され、保障されているわけではなかつた。しかしながら、高請された田畑の名義人の権利は検地帳に記載されることにより第三者に対して絶対的なものとして領主等から公認され、保護されていたのである。なお近世においては、所持権の中に含まれる土地を具体的に用益、管理、処分する権能、あるいはこれの行使事実を意味するものとして「支配」あるいは「進退」なる用語が用いられていたが、通常の場合(すなわち右の所持権が具体的現実的な使用収益の事実と結びついている場合)には「所持」と「支配」「進退」は一致するものであつたし、従つてこれらの用語が厳密に区別されずに混用されることも多かつたのである。さらに、所持権には種々の封建的諸制限が附随していた。これは地域によつて異るが、その主たるものは農民所持田畑の永代売買の禁止である。もつともこれは高請田畑についてのみであり高請のない田畑には譲渡制限がなく、また町人の所持する町地も拝領地、拝借地(幕府から由緒に基き下賜されあるいは借り受けた土地)などを除いては譲渡が自由であつた。
 ところで明治維新後明治政府は、明治元年一二月八日行政官布告第一〇九六号により封建領主の土地領有を廃し、同四年九月四日大蔵省通達(以下大蔵省通達を単に省達という)第四七号により田畑勝手作を許し、同五年二月一五日太政官布告(以下太政官布告を単に布告という)第五〇号により田畑永代売買と所持を四民(士、農、工、商)に許可して土地に対する封建的諸制限を撤廃した。それとともに地租改正の準備段階の措置として、土地の地価を決定するため地券を発行することにして同四年一二月二七日の布告第六八二号によりまず東京府の市街地に地券の発行を命じたのを始めとして、他の二府および大都市に市街地券を発行し、ついで同五年二月二四日の省達第二五号「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」により郡村に対して地券を発行し、さらに同年七月四日省達第八三号で全国一般の私有土地全部に地券を発行することとした(壬甲地券)。この地券発行は複雑な封建的土地権利関係を「一地一主」の原則で簡明に整理するとともに土地の処分の自由を保障し、その土地に対する私的権利を公認するものであつた。しかしながら、各種の土地について、いかなる土地を私(民)有地として地券を発行すべきであるか否かが明確でなかつた。そこで明治六年三月二五日布告第一一四号で「地所名称区別」が公布され、各種の土地につきその種別を定め、それぞれにつき地券発行の要否を規定した。そしてこれは同七年布告第一二〇号により改正され全体の土地を官有地と民有地の二種に大別し、そのうち官有地を四種に民有地を三種に細分した。これが官民有区分である。この官民有区分は、数次の改正を経ることになるが、従来既に地券が発せられている私有地ならびに民有の確証のある耕地、宅地、山林等が民有地第一種に編入され、同じく民有の確証のある用悪水路、溜池敷、堤敷、井溝敷地が民有地第三種に該当するとされ、山岳、岳陵、林薮、原野、河海、湖沼、池沢、溝渠、堤塘、道路、田畑、屋敷等其他民有に非ざるものは官有地第三種とされた。これらにより地券発行の基準および地租を賦課するか否かが明確化され、地租改正事業が進展した。ところで右地租改正事業は明治六年から一四年にかけて行われたが、これによつて全国の民有地が丈量されて個別に地価が決定され、地主に地券が交付されるとともに地租が賦課されることになつた。その際地主の決定すなわち地券発行の相手方は、検地帳の記載等によりそれまで当該土地を所持していた者、あるいは当該土地を「支配」「進退」していた者とされたが、これらの者が多数いる場合、あるいは、これが明確でない場合には当該土地に対し、事実上最も強い支配力を有していた者を地主と認め、地券を交付した。
 そして、地券発行のためおよび、私有地の丈量の結果を記載するため、地券大(台)帳が編製され、これが後に整備され発展して土地台帳となり、地租に関する事項を登録する根本台帳となつた。

2 以上の事実ならびに前掲各証拠を総合すると、近世においては一般的にいつて現行法の抽象的、観念的、包括的、絶対的な土地「所有権」と完全に同一視しうる権利概念は存在しておらず(すなわち所有権に類似した近世の「所持権」なる権利も、前記のように一部観念化、抽象化、絶対化する場合もあつたが、それは不完全かつ未成熟であつて、到底、現行法の所有権概念と同一視しうるには至らないものといわざるをえない。)、現行法の土地所有権につらなる土地に対する権利は、前述の地租改正事業の過程において、近代的土地所有制度が整備されるに伴い登場し、確立してきたものであり(これを近代的土地所有権という)、そして、右の近代的土地所有権は近世における土地に対する私人の権利が右の過程において近代的権利に高められたものであつて、結局個々の土地に対する近代的所有権は近代的土地所有制度が確立した段階において、当該土地に対し、従来から所持権等の所有権に類する強度の権利を有していた者が取得するに至つたものと解するのが相当である。
 そうすると、本件川敷に対する所有権は、右の近代的土地所有制度が確立した段階において、本件川敷に対し、所持権等の強い権利を有していた者、すなわち本件川敷を所持し、あるいは支配進退するなど最も強い支配権を行使していた者に帰属するものというべきである。

3 ところで被告は、本件川敷に対し地券が発行されていないこと、および地券台帳に登載されていないこと(この事実は当事者間に争いがない)をもつて、本件川敷は官民有区分の際に官有地すなわち国有に帰したものである旨主張する。
 しかしながら、既に述べたように、前記近代的土地所有制度の成立過程にあつて、地券は、その発行により、近代的土地所有権を公証するものとしての意味を有するものであつたけれども、決してこれの発行により、新たに近代的土地所有権を創設するものではなかつたのであるから、これの発行がなかつたことが直ちに、当該土地が民有ではなく官有地となることを意味するものではない。すなわち、前記認定事実によれば、地券発行の前提となつた官民有区分は、従来の土地支配関係を一掃して新たに近代的土地所有としての民有地、官有地を創出するものではなく、従来私人の所持ないし支配、進退していた土地を民有地と確認し、それ以外を一応官有地として取り扱うだけのものであつて、官民有区分により従来の土地の性質(私人の所持地か否か等)に変化をもたらすものではないと解すべきである。(ただし、前掲各証拠によれば一時期公有地なる土地が存在したが、官民有区分によつて、これが民有と官有に、区分されることとなつた。従つて、右に述べたことはこの公有地には該当しない。)。ただ、実際に民有地として地券の発行を受けうるのは民有の確証のある土地であつたから、右の民有の立証ができない場合は地券の発行を受けることができないことになり、その結果官有地として取り扱われることになる場合もあるが、これは事実上の取扱の問題であつて、これにより実体的に民有地とさるべき土地が官有地になると解すべきものではない。
 そして、同様に、土地台帳も地租徴収に関する根本台帳として機能するものであつたから、これが、土地に対する実体的な所有権の帰属に何ら影響を与えるものではなく、台帳に登録がないことによつて従来私人が所持していた土地が官有になるものでもない。従つてこの点に関する被告らの主張は失当である。

4 従つて本件においては、官民有区分の際、本件川敷が当時の安井家の私有地(民有地)であると認められるべき客観的条件を実体的に具備していたか否か、すなわち安井家が従来から右時期まで本件川敷に対し、最も強い私的支配権を有していたか否かの検討が必要となつてくるのである。そこで次項以下において、近世における道頓堀川に対する安井家の権利、およびその前提たる道頓堀川開さくの際の事情等につき検討を進めることとする。

三 道頓の城南の地の拝領事実について
1 原告らは、原告らの先祖が本件川敷の所持権を取得した原因の一つとして、安井道頓が、豊臣秀吉から本件川敷一帯を含む城南の地を拝領したとの事実を主張する。

2 ところで、右道頓なる人物が実在したことは当事者間に争いがないが、原告らは、道頓は安井市右衛門成安という名で後に道頓と号したものであつて、原告らの先祖である初代安井九兵衛道卜とは従兄の関係にあると主張し、右事実を推認させる証拠として、〈証拠略〉が一応存在する。しかしながら、右の道頓安井氏説に対しては、道頓が摂州平野庄の成安氏の出身であるとする有力な反対説が存在し(〈証拠略〉)、これを裏付ける史料(〈証拠略〉)も存在する。そのうえ、〈証拠略〉にも、安井道頓としてではなく成安道頓と記載されており、この「成安」がこれらの文書の文脈上原告らの主張のように単なる名前であるとは必ずしも認め難いものがある。すると、道頓の姓が安井氏であることについては多分に疑問があるといわなければならない。
 しかしながら本件においては、原告らは道頓の相続人として、同人の権利義務を承継したとの主張をしているわけではないから、道頓の姓ならびに道頓と初代九兵衛道卜との血縁関係について、当裁判所がいずれかに認定すべき必要はなく、右の問題は史家による研究にまつべきものである。要は、原告らの先祖が本件川敷の所持権を取得した原因の一つであると主張する道頓の城南の地拝領事実の存否である。

3 〈証拠略〉には、道頓およびその父の定次が豊臣秀吉から城南の地を下賜された事実が記載されており(原告らは「拝領」したと主張しているが、それは「下賜」されることが即ち「拝領」することと同義であるとの前提に立つているものと思われる。そして原告らは「拝領」が当時においては所持権を与えられることを意味すると主張しており、右主張に沿う〈証拠略〉が存在する。しかしながら、一般に「拝領」することは「下賜」されることとほぼ同義であると解されるけれども、〈証拠略〉によれば、「拝領」という言葉は封建的身分関係の下で多義に用いられており、それが所持権を与えられることを意味する場合もあるが、単に公法的な支配権、管理権を与えられることを意味する場合もあつたことが認められる。従つて「拝領」という用語については、それが用いられている場合に応じて、個別的にその意義を検討することが必要である)〈証拠略〉にも原告主張に沿う各供述部分がある。しかしながら城南の地の正確な位置範囲、面積等は、本件全証拠によつても明らかでなく(〈証拠略〉によれば玉造鴫野辺と解する余地があるが、断定はし難い。)、かつ本件川敷が右城南の地に含まれるか否かも明らかでないばかりか、〈証拠略〉ならびに弁論の全趣旨によれば、前記紀功碑は大正四年八月道頓堀界隈の有志および当時の大阪府知事大久保利武が発起人となつて道頓ならびに道卜の功績を讃えるため、寄付金を募り建立したものであり、その碑文たる甲第一号証は西村時彦が撰文したものであることが認められ、従つて、右碑文が公文書であるということはできず、かつ西村時彦が右碑文を撰する際どのような史料に依拠したかは必ずしも明らかでないから、その史料としての正確性には多分に疑問があるものといわざるをえず、これのみでは到底道頓の城南の地拝領事実を認めることができない。また〈証拠略〉は、昭和七年九月一日付発行の雑誌「上方」第二一号所載の木谷蓬吟の「道頓堀開発にからまる一話」なる記事であるが、右も木谷がどのような史料に依拠して右記事を書いたのか不明であつて、これまた前記原告ら主張事実を推認するに足る適確な証拠とはなしえないものというべきである。そして〈証拠略〉は、右の紀功碑文に拠つたものであることが認められ、さらに前掲各供述部分もこれを裏付ける証拠がない。すると、これらの証拠のみでは原告ら主張の拝領の事実を認めるに十分でなく、他に右事実を認めるに足る証拠はない。

四 道頓堀川の開さく工事と本件川敷に対する所持権について、
1 〈証拠略〉を総合すると、次の事実が認められる。
 道頓堀川は慶長一七年(一六一二年)に、道頓、および原告らの先祖である初代安井九兵衛(後に道卜と号す)、その兄である治兵衛定清、ならびに平野藤次らが中心となつて、豊臣家の許可を得たうえ、元梅津川と呼ばれていた小溝を拡げて上下二八町にわたり堀川(当初南堀川と称せられた)となし、かつ沿岸地域を宅地化して町地となすべく、右の者らの自費を投入して(ただし開さく費の全部が私費でまかなわれたかどうかは証拠上明らかでない)工を起こしたものであるが、翌年治兵衛が病没し、また道頓も元和元年(一六一五年)五月大阪夏の陣に際し、豊臣方に従つて大阪城に立てこもり、落城とともに討死にした。他方初代九兵衛、平野藤次らは徳川方につき、御用金を調達するなどして協力したため、家康から土地を拝領するなどの褒賞を受けた。大阪は同年六月八日から松平下総守忠明が大阪城主として統治することとなつたが、忠明は直ちに戦乱で荒廃した大阪市中の市街整理に着手し、市中の富裕な有力町人を元締衆として町割をなさしめ、初代九兵衛、平野藤次に対しても同年九月一九日付家老奉行衆四名の折紙(連判状、甲第二号証)をもつて、道頓堀川沿岸地域の宅地化、ならびに町割等の諸事につき肝煎才覚するように命じた。そのころには既に道頓堀川(南堀川)の開さくはかなり進捗していたが、右両名は右の命を受けて、中断していた同堀川の開さく工事を自費で続行し、同年一一月木津川へ流入する川口の工事を終えて完成させるとともに、沿岸地域の町割家建につき采配を振つて北側を全て町地とした。その後、松平忠明が道頓の遺功を録すため、右南堀川を道頓堀川と改称すべき旨命じたので、以来これが道頓堀川と呼称されるようになつた。

2 ところで原告らは原告らの先祖の本件川敷所持権の取得原因として、
(一) 道頓、治兵衛、初代九兵衛、平野藤次らが道頓堀川開さくに着工した時点で本件川敷は開発用地として右四名の共同所持地となつた。
(二) その後治兵衛、道頓が死亡し、徳川政権下において松平忠明から右九兵衛、藤次が甲第二号証の折紙により従来からの本件川敷の所持を認められた。
(三) 仮にそうでなくても右九兵衛、藤次は道頓堀川を完成させた時点で自費町人開発請負新田の慣習法により本件川敷の所持権を取得した。
旨主張するので、前記認定事実を前提にこれにつき順次検討する。

3 まず右(一)の主張は、その趣旨が必ずしも明確でないが、本件川敷を含む一帯を城南の地として道頓が豊臣家から拝領して所持権を取得したことを前提に、道頓が自己の所持する本件川敷を堀川開発用地として提供したことにより、開さく工事の中心人物たる前記四名の共同所持地となつた旨の主張と解されるが、前記一で述べたように、右前提事実自体が証拠上認められないから、右主張はそれ自体失当である。
 しかしながら、原告の右主張は、前記認定の、右四名が道頓堀川開さくにつき豊臣家の許可を得たことをもつて本件川敷の所持権を取得した、すなわち右四名は単に豊臣家から開発の許可を受けただけではなく同時に本件川敷の所持権も下附されたものであるとの趣旨に解されないでもないから、以下これにつき検討する。〈証拠略〉(二代安井九兵衛作成の由緒書)には右開発着工の際の事情が次のように記載されている。
 「道頓堀川之儀慶長十七壬子年平野藤次成安道頓安井治兵衛、安井九兵衛四人従御公儀様申請上下弐拾八町堀立申候」また〈証拠略〉(いずれも安井家の由緒書)〈証拠略〉(安井系譜)にも同旨の記載がみられる。これらによれば道頓堀川の敷地は右四名が豊臣家から「申請」たものであることが認められるところ、〈証拠略〉によれば、「申請」とはある行為なり、事業を領主等に申出て、一定の条件の下に右行為なり事業をなす権限を許可あるいは認可されることを意味するものと解するのが相当であつて、これを単純に所持権の下付の意味に解することはできない。ただ〈証拠略〉(延宝五年二代安井九兵衛作成の由緒書)には「慶長拾四年壬子年大阪只今之道頓堀其時分ハ野原ニ而御座候処平野藤次郎安井九兵衛安井治兵衛成安道頓御公儀様江申上上下弐拾八町被下自分の銀子にて堀をほり・・」と記載されているところ、〈証拠略〉によれば右文中の「被下」との語は一般に「頂戴する」との意味であるが、ときには「被下」の語も「申請」と同義に許可を願つてある権限を認められる場合に用いられることもあることが認められ、前掲の各由緒書等の記載と対照するとき、右の「被下」も「申請」と同義であると解するのが相当である、さらに〈証拠略〉に「道頓堀之儀慶長十七子年父道卜並親類共申合拝領仕川を堀両側町家に取立申候」と記載されている「拝領」の語も同様に右の「申請」と同義に用いられたものであると解するのが相当である。
 従つて前記の四名は、豊臣家から堀川開さくの許可を得ただけであり、これにより、右四名が本件川敷に対し、工事に必要な限度で一定の管理権を有するに至つたであろうことは一応推測できるが、それ以上に、本件川敷に対する私的な強度の支配権、すなわち所持権を取得するに至つたものとは認めることができず、他に原告らの主張を認めるに足る証拠はない。

4 次に(二)について検討する。
 原告らは前掲甲第五一号証の一ないし四(寛文一〇年二代九兵衛作成の由緒書付覚)に「大阪並九宝寺村者松平下総守様御知行ニ相渡候に付・・(中略)其刻道頓堀之儀藤次九兵衛両人に被下家を建させ肝煎候様にと則下総守様御家老並奉行衆連判之御折紙証文被下」と、また申第五号証(五代安井九兵衛先祖由緒覚書)に「元和元年松平下総守殿大阪御城主之節道頓堀川両側家を建てさせ候様平野藤治安井九兵衛に被仰付慶長年中に拝領仕候地面以前之通被下置下総守殿御家老中折紙被下候丹今所持仕候道頓堀川下ニ而茂地面被下置右両側家建仕候間藤治九兵衛所持仕候」とそれぞれ記載され、その他前掲甲第九四号証の一、二(大日本史料中の平野二郎兵衛安井九兵衛由緒書)にも同旨の記載(御陣以後勿論道頓堀川之儀ハ両人ニ不相替被下下総守様御家老並奉行衆連判之証文御座候)があることをもつて、本件川敷は甲第二号証を受け取る以前から九兵衛、藤次が所持権を有しており、甲第二号証は右所持権を松平忠明が改めて確認したものである旨、および仮にそうでないとしても甲第二号証の折紙により松平忠明から右両名に所持権が下付されたものである旨主張する。
 しかしながら、右両名が甲第二号証を受領する以前に本件川敷を所持していたことを認めるに足る証拠はなく、〈証拠略〉によればこれら由緒書にいう「折紙」あるいは「証文」とは原告ら主張のように甲第二号証の「以上」と題する文書を指すものと解されるが、この甲第二号証は、「南堀川之内先年寄如有来両人ニ申付候条早々家を立させ可申候其上両人之者右寄取立申堀川之儀候間万事肝煎才覚可仕候以上」とのみ記載されているのであり、〈証拠略〉によれば右の記載は「南堀川近辺のことは従前通り両名に申付けるから早く家を建てさせるようにせよ、そのうえこの南堀川は、両人の者が築造したものであるから付近一帯のことは何事につけよく世話をし、采配を振うようにせよ」との意に解するのが相当であつて、右の文意から同号証をもつて松平忠明が九兵衛、藤次に対し両名の道頓堀川河川敷所持権を確認し、あるいは右両名に所持権を与えたものと解することはできない。すると、前記甲第五一号証の一ないし四、第九四号証の一、二の各記載の意味するところも、道頓堀川自体の所持権を「被下」れたのではなく、道頓堀川の両岸に家建てさせることを含めて道頓堀川一帯の肝煎をする権限、すなわち一種の管理権を従前の通り認められたものと解すべきである。そして甲第五号証の記載は右と同旨の権限ならびに慶長年中に拝領したとされている地面(これが誰から拝領したものか、およびその土地の位置は必ずしも明らかでないが、前後の文脈から道頓堀川沿岸の土地であると推認される。なお、「拝領」といつてもそれがすべて私的な所持権を与えられることを意味するものでないことは前述したとおりである。)に対する何らかの支配権を確認されたものとは解されるが、道頓堀川の河川敷の所持権を確認あるいは付与されたものと解することはできない。
 そして、他に、本件川敷およびこれを含む道頓堀川自体の所持権を松平忠明が初代安井九兵衛らに与えたことを認めるに足る証拠はない(なお〈証拠略〉の大阪市史所載大阪三郷町中御取立承伝記、〈証拠略〉の同所載摂陽奇観其一には、安井家の先祖が松平忠明から道頓堀川一帯を拝領し、ここに川を掘つて南堀と名付け西側に建家をした旨の記載がみられるが、前記認定事実に照らすと右記載部分は必ずしも正確でないことがうかがわれるので採用できない。)。

5 次に(三)について検討する。
 原告らは、初代九兵衛、藤次が自費で道頓堀川を完成させたことから自費町人開発請負新田に準じて本件川敷の所持権を取得したと主張する。
 〈証拠略〉によれば、近世において新田開発はさまざまな形態で盛んに行われたが、そのうち町人が開発主となつて行うのを町人(開発)請負新田といい、これは町人がその蓄積した資本力により、大規模な土木工事を必要とする新田開発を幕府あるいは領主の許可を得て請負うものであり、特に江戸時代中期以後数多くみられたものであること、この場合、開発主は開発の認可を受けると同時に地代金(敷金)を差し出し、開発費用は全て自分で賄い、完成後は鍬下年季という一定の年貢を免ぜられる期間があるが、その後は検地を受けて年貢を納めることとなること、そして開発主は、開発した新田およびこれに附随するかんがい用水敷、堤塘等の所持者となり、これを小作人、多くの場合永小作人に耕作させて収穫の何割かを小作料として取得することにより収益を得たものであること、そして新田開発は町人にとつて、安全かつ利益の多い投資事業であつたこと等の事実が認められる。しかしながら、前記1で認定した事実および鑑定人牧英正の鑑定の結果によれば、道頓堀の開さくは、新田の開発を目的として行われたものではなく、むしろ舟運の便をはかり、家建をするなど町地としての開発を主たる目的としたものであり、しかも徳川政権に移行してからの町地開発は松平忠明から命ぜられたものであつて道頓堀川の完工もその開発の一端であつたのであり、営利を目的とする私企業に類するものではなく、いわば公企業に類するものであつたと認められる。そうすると道頓堀川開さく工事は、町人の利潤追求事業の一つとしての新田開発とはその性格において大きく異るものがあり、新田開発において、開発主に認められている権利をそのまま道頓堀川開さく事業に類推し、九兵衛、藤次が、右事業に私費を投じたことにより、完工と同時に右堀川全体について所持権を取得するに至つたと解することは極めて短絡的な思考方法であつて、首肯できないものといわざるを得ず、従つて右に反する鑑定人津田秀夫の鑑定の結果は採用しない。そして、右道頓堀川開さく事業の功績から九兵衛らに認められた栄誉と権益は後述のとおりであり、九兵衛らは私費投入に対する褒賞として右の栄誉と権益を得たのであるが、それ以上に、道頓堀川の開さく完工時点において、右両名が河川敷を含めて道頓堀川自体の所持権を取得したことを認めるに足る証拠は存在しない。

五 道頓堀川の管理、支配事実について、
1 四で判断したように、原告らの主張する原告らの先祖が本件川敷を含む道頓堀川を所持するに至つた原因事実は全て認めることができない。しかしながら前記二で述べた如く、近代的所有権は近代的土地所有制度が確立した時期において、当該土地を所持するなど最も強い支配権を行使していた者に帰属するものと解すべきであるから、所持権の取得原因事実が確定されなくても、事実として当該土地に対し所持権を有するなどの強い支配権を行使していた事実が認められれば近代的所有権を取得する余地があるわけである。ところで安井家の先祖が、道頓堀川に対し、ある種の管理権、支配権を有していたことは既に認定したところであるから、次に、右の管理権なり、支配権がどのようなものであるか、またそれが、右に述べた所持権の行使等の強い支配権(以下所持権等という)といいうるものかどうかについて検討する。

2 まず原告らは前掲甲第六号証(安井家の由緒書)中に、初代安井九兵衛は「嶋田越前守久貝因幡守奉行之砌惣年寄役被仰付道頓堀之訳仰尋ニ付由緒之趣申上候処以来道頓堀川之儀者都而支配仕明地等も有之候間随分家を建所繁昌仕候心掛世話可致旨被仰渡右町々之年寄等も相極諸事差図仕」と記載のあることから、九兵衛が道頓堀川を所持し、これに基き道頓堀川の諸事万端の支配、管理をなしきたつた旨主張し、鑑定人津田秀夫の鑑定の結果中にも、江戸時代「支配」なる語は多義に用いられていて、「支配」が常に「所持」と結びつくものではないが、甲第二号証のような「万事肝煎才覚可仕」というような内容で裏打ちされている場合には右「都而支配仕」の「支配」のうちに「所持」の概念も包括されているとみるべきであろうとしている。しかしながら、前記のように甲第二号証自体が九兵衛らに道頓堀川の所持権を確認ないし付与したものでなく、単に道頓堀川ならびに沿岸の開発を命じたものと解すべきものである以上、甲第六号証の右記載も、単に九兵衛らが道頓堀界隈一帯を開発して管理し、世話役として采配を振うこと、すなわち諸事肝煎才覚してきたことを「都而支配仕」と表現したものと解することができるのであつて、甲第二号証の記載から、甲第六号証の「支配」なる文言の内に「所持」の概念が包括されているということを導き出すことには多分の疑問があるというべきである。そして前掲甲第五一号証の表題に「私親安井九兵衛道頓堀取立干今組合之分支配仕来候由緒云々」と、文中に「親九兵衛より只今私迄組合八町之分何事ニよらず支配仕来」とあり、甲第五二号証の表題にも同様に「干今組合支配仕来・・・」とあり、右書証自体ならびに鑑定人牧英正の鑑定の結果によれば、これらの書証中の「支配」なる語はいずれも「所持」を意味するとは考えられず、安井家の者が道頓堀川界隈一帯につき諸事世話役として采配を振つていたこと、すなわち肝煎才覚してきたことを意味するものと解すべきであることが認められ、右書証との対照からしても、甲第六号証中の「都而支配仕」なる語も前記の解釈のように右書証中の「支配」と同趣旨のものと解するのが相当である。従つてこの点についての前記鑑定人津田秀夫の鑑定の結果は採用できず、結局甲第六号証の記載のみから、安井家がなしてきたとされる具体的支配管理事実の検討を経ずに、安井家の道頓堀川所持の事実を推認することはできない。

3 そこで右安井家先祖の道頓堀川に対する具体的支配管理の事実について検討する。〈証拠略〉を総合すると、次の事実が認められる。
 初代安井九兵衛と平野藤次は大阪夏の陣で徳川方の御用を勤め、また、大阪城主松平忠明の命に従つて道頓堀川付近一帯の町割、家建、および道頓堀川完工などにつき肝煎才覚した功績により、九兵衛は元和元年から五年まで久宝寺村他数か村の代官を、藤次は元和二年から平野村の代官をそれぞれ仰せつけられ、また九兵衛は、大阪の陣後間もなく道頓堀日本橋北西角に表行二〇間、裏行二〇間の屋敷地を拝領し、かつ諸役(税に相当するもの)の負担を免ぜられ、その後、松平忠明から請地として玉造辺に四万三千坪の土地を拝領し、また平野藤次と共に道頓堀南側西之方に明地として表行六百間、裏行二百間の空地を請所に「被下」されたりなどして、寛文一三年(一六七〇年)ころには右の土地の他、道頓堀宗右衛門町に二口、油町、五右衛門町、新えびす町に各一口の家屋敷(立家のある土地)を所持し、河内久宝寺村の田地を請地とし、また同所に家屋敷を所持しており(右のうち、道頓堀南側西之方の土地は当初町地開発のための材木置場としていたが元禄一一年(一六九八年)九月幕府(大阪は松平忠明が元和五年(一六一九年)大和郡山へ移封されて以来幕府直轄地とされ、大阪町奉行が支配していた)から公儀御用地として召上げられ、当時の安井家には野田村、下福島村の外島が替地として与えられた。また玉造鴫野の土地もまた一部召上げられた。)、そのうち道頓堀南側西之方の一部および前記替地、玉造辺の土地についてはこれを小作人に耕作させて、小作料を徴収した上年貢を公儀に差し出しており、家屋敷の一部はこれを賃貸したり、後に売却したりした(なお道頓堀川両岸の土地につき明治時代の旧土地台帳および不動産登記簿に最初に記載された所有名義人として原告らの先祖の安井健治の名があるのは大阪市南区長堀橋筋二丁目一九番地の一、宅地八一〇・三六坪のみである。)。そして初代九兵衛が元和七年(一六二一年)に南組(松平忠明による町割の完成後大阪は北組、南組、天満組の三郷に分かれ、三郷にある程度の自治が認められていた。そして各組に惣年寄がおかれ、その下の各町に町年寄がおかれていた。)の惣年寄に任ぜられて以来、明治維新に至るまで安井家の者(安井家の当主は明治に至るまで九兵衛と称した。)が代々惣年寄に任ぜられた。その間安井家は道頓堀沿岸の八町(これを川八町と称した)の町年寄を任命し、川八町の水帳(検地帳、後の土地台帳に相当するもの)、絵図、浜地帳等を保管し、水帳に奥印し(当初は平野家の者も一緒に奥印したが、元禄年間に平野家が断絶して以来、安井家が単独で奥印するようになつた。)、名義変更の届出を受付けて水帳の貼替をなし、日本橋制札場および日本橋、長掘橋の普請監督に与かり、且つ両橋の掃除費用等の諸経費を川八町ならびに堺筋の町々へ賦課し、これを安井勘定場で徴収したこともあつた。また道頓堀に芝居各座を誘致したことによる「安井桟敷」の特権を有し、上荷船、茶船を所持していた。さらに延宝三年(一六七五年)六月道頓堀川の南側と西側町裏の堤が洪水により決壊した際、当時の安井九兵衛と平野次郎兵衛(平野家は藤次が代官となつて後、弟の次郎兵衛が九兵衛と共同で道頓堀川南側の土地を請地としており、代々次郎兵衛と称した)が下難波村の庄屋および年寄中とともに堤奉行方へ公儀普請を願い出たが聞き入れられなかつたので私普請で修復した。また安永六年(一七七七年)ころ、道頓堀川の一部を築地(埋立)したいと願出る者があつたため奉行所が川八町の町々へ差支えの有無を問うた際、当時の安井九兵衛が町人達から築地をとりやめるよう奉行所にお願いしてくれと依頼されて仲介した結果、安永九年これが取り止めになつた。
 右認定の事実を除き、その余の原告ら主張事実(請求原因1、(六)の(3)、(5)、(6)の前段の事実)はこれを認めるに足る証拠はない。すなわち、右(3)についてみれば前掲甲第八号証には原告ら主張の如き記載がみられるが、これは安井家が公儀から拝借していた(この点については後述する)道頓堀川の浜地(大阪三郷の河岸通りにある家屋の家先の傾斜地、河川の土手、堤などの上口部分)部分についてのみ言つているにすぎないのであり、道頓堀川浜地の全てにわたつて安井家が犬走石や総石垣を築いたとの証拠はない。また(5)についてみれば、鑑定人佐古慶三の鑑定の結果によれば堀米とは水年貢ではなく拝借浜地の転貸し地代(小作料)を意味するものであることが認められるから、右主張自体失当であり、(6)の杭場賃の徴収についてはこれを認めるに足る証拠はない。4 そこで以上の認定事実が、安井家の道頓堀川に対する所持権等の行使事実を推認させるものであるか否かについて検討するに、〈証拠略〉を総合すると、次のように解するのが相当である。
(一) まず、道頓堀川自体あるいはこの河川敷を「所持」している旨直接に記載した証拠は本件に存在しない。そして一六七〇年ころ安井家が「所持」していた土地と認められるのは道頓堀川沿岸の数か所と、故郷の久宝寺村にあるだけである。すなわち残りの土地はいずれも請地(請所)であつて、これらは公儀から請託を受けて土地を管理し、その土地を他人に貸付けたり、小作人に耕作させたりして所定の年貢を取り立てたうえ、その中から一定の自己の取分を控除した残りを公儀に納めるというものであり、従つてこの土地に対しては安井家に完全なる所持権はなく、右のような態様による支配管理権のみがあつたのである。前掲甲号証中には右土地もまた安井家の「所持」地である旨を記載したものもあるがその「所持」なる用語は右の趣旨に解すべきである。
 よつて、安井家が所持していた前記土地、および右支配管理していた土地の存在から、安井家が道頓堀川自体の所持権等を有していたと推認することはできない。
(二) 次に、前記認定事実中川八町の町年寄の任命、日本橋制札場、日本橋、長堀橋の普請監督、掃除費用等の緒経費の徴収、上荷船、茶船の所有等は、当時の大阪における惣年寄の職務ないし権益であつたのであり、安井家が代々南組の惣年寄を勤めていたことにより、右惣年寄の資格としてこれらの職務を遂行し、かつ右権益を保有していたにすぎず、これをもつて安井家が道頓堀川に対し、私的な所持権を有していたことの証左とすることはできない。なお甲第一〇号証にいう「安井勘定場」とは安井家の勘定場という意味にすぎず、また勘定場とは当時の船場や島之内の屋敷内で一般に設けられている玄関近くの一画のことであつて、「安井勘定場」の存在は何ら特別の意味を持つものでなく、単に安井家が惣年寄としての職務を同所で便宜行つていたこと(通常は惣会所で行なう。)を示すにすぎないものである。
(三) また延宝三年六月の堤決壊の際の私普請の点は、当時堤破損の場合の修復を公儀が行うのか村方(町方)で行うのかの明確な定めがなかつたこと、および後述の如く川筋の取締は公儀が行つてきたことから公儀の費用で修復して欲しい旨願出たのに対し、右破損部分が、当時の安井九兵衛、平野次郎兵衛らの管理する土地に連る部分であつたためか公儀普請が認められず、やむなく私費で修復したという経緯であつたことがうかがわれ、右事実は安井家の道頓堀川に対する所持権等の存在を推認させるものではない。むしろこれは道頓堀川の維持管理について幕府がある種の権限を有していたことを示すものである。(四) 川八町の水帳、絵図、浜地帳等の保管、水帳への奥印、安井桟敷の特権等の事実は、初代安井九兵衛が道頓堀川の開さく、周辺地域の家建等の開発をしたことの由緒に基づくものと推定され、また安永六年ころの道頓堀川築地差止めの件については安井家に右の由緒から何がしかの発言権があつたことを推認させるものである。しかしながら、これらの由緒に基づく右の権限ないし権益だけでは、安井家が道頓堀川自体に対する所持権等を有していたと推認することはできない。けだし、それらの事実は道頓堀川の所持からのみ導き出されうるものではないからである。しかも、右道頓堀川築地差止めの件も、奉行所が直接川八町の町人へ差支えの有無を問うていることからみても、安井家の道頓堀川に対する管理権がそれほど強大なものではなかつたことを逆に推認させるものである。

5 そうすると、前記認定の事実からは安井家の道頓堀川に対する所持権等の存在を推認することはできないことに帰するものといわざるをえず、その他本件全証拠を検討してみてもこれを推認すべき事実は認めることができない。

6 他方〈証拠略〉によれば次の事実が認められる。
 すなわち、前記のように大阪三郷の河岸沿いの傾斜地を浜地といい、これはその地先の屋敷を所持する者がそこに納屋を建てたりして(これを浜納屋といつた)使用することを許されていたが、右浜納屋を火焚所にすることすなわち住居地にすることは禁じられていたところ、延享元年(一七四四年)公儀から三郷惣年寄をして、以後浜地を住居地にすることを許可する代償として、右土地に対し冥加銀(使用料)を徴収する件につき町々の意見を聞かせたが、その時の三郷惣年寄すなわち北組住吉屋藤左衛門、南組安井九兵衛、天満組中村左近右衛門連名の申渡口上(その覚書が〈証拠略〉の大阪市史第三巻に載せられている)中で、右安井九兵衛自身が「浜地は元来公儀御地面」である旨述べていること、右の冥加銀はすぐには徴収されなかつたが宝歴七年(一七五七年)から浜地冥加銀を徴収することになり、町々をして浜納屋地坪数帳を作成せしめ、その一冊を町奉行所に一冊を惣会所に、残りの一冊を町会所にそれぞれ保管させたこと(従つて前述の、浜地帳面を安井家が保管していたのは惣年寄としての職務であつた可能性もある。)、これは当然道頓堀川浜地についても実施され、安井家自身も自己の使用する浜地の坪数を浜納屋地坪数帳に記載し、冥加銀を上納していたこと、さらに明治初年、当時の安井九兵衛が大阪府宛に提出する趣旨で作成した〈証拠略〉中にも同人が占有する道頓堀川浜地を「私拝借地」と述べていること、同号証にいう犬走り石総石垣の築造等は、もともと浜地の借主の負担とされていたこと、以上の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。
 以上の事実によれば、道頓堀川浜地は江戸時代から公儀すなわち幕府が所持していたものであり、これを浜地先の町人が当初は無償で、後に使用料を納めて使用していたにすぎないことが推認され、浜地が河川と一体をなすものである以上(この場合これを河川の構成部分と解するか附属物と解するかは問題ではない)、右浜地を公儀が所持していた事実は、道頓堀川河川敷自体に対する公儀の強い支配権を推認させるものというべきである(公儀が河川の縁辺部分である浜地のみを所持しその中央部分である河川敷を所持しないということはいかにも不自然である)。この点につき原告らは浜地もまた原告らの先祖が原始的に取得していたが、後年に至り浜地のみ公儀に収用されて安井家の所持権が失われたものであると主張するが、右主張事実を認めるに足る証拠はない。

7 また〈証拠略〉によれば次の事実が認められる。
 貞享四年(一六八七年)江戸幕府は大阪町奉行に対し、自今川筋一切の事務を担当支配すべき旨命じ、淀川筋は上流宇治まで、木津川筋は市上笠置まで、その他大和川筋石川筋の一部、および、これらの枝川全てを町奉行が支配し、取締ることとなつた。しかしながら、これらの川については貞享四年以前から幕府が管理取締をなしてきたのであり、その具体的内容としては、浜地の用益の制限、通船往来妨害、塵芥投棄の取締、洪水の際の見分、川浚(これには大川浚、内川浚、川口浚があつた)、川普請の決定等があつた。そして大阪市中の諸堀川に対しても公儀の管理が及んでおり、道頓堀川は内川浚区域に含まれ、その川浚費用は当初町中から徴収していたが、元禄一一年(一六九八年)以後町奉行所に納められた堀江上荷船船床の一部をこれにあてることとされた。また、これらの堀にかかる橋には、公儀橋と町橋があり、公儀橋については公儀の費用をもつて改架修繕することになつており、日本橋、長堀橋等は公儀橋であつたが、その他の道頓堀川にかかる橋は町橋として町方で改架修繕を行つた。しかしこれらの橋の掃除費用はすべて町方において負担すべきものとされていた。
 以上の事実、および前記4(三)、6で認定した事実を総合すると、江戸時代を通じて道頓堀川を主として管理し、最も強い支配権を行使していたのは大阪町奉行であつた可能性が強いものといわざるをえず、これは必然的に、その河川敷すなわち本件川敷に対して所持権等を有していたのは大阪町奉行すなわち江戸幕府であつたということを推認させるものである。
 これに対し、原告らは、大阪町奉行の川筋取締、およびその他の管理はいわゆる行政主体の作用に基づく行政的管理、公物管理であつて、安井家が行使してきた所持権に基づく私的管理とは無関係である旨、また、道頓堀川は公共の用に供される公物たる面を有するから、私有公物として私権の効果がある程度制限されていた旨主張する。しかしながら、これまでに判断したように安井家が道頓堀川に対し行使してきた管理、支配の事実は、安井家の道頓堀川所持を推認させるものではなかつたのであり、かつそれが私有公物として私権の効果が制限されていたためであると認むべき証拠もない。

六 以上の次第で、近世における原告らの先祖の道頓堀川河川敷の所持権取得原因事実、および道頓堀川に対する所持権等の行使事実は、結局いずれもこれを認めることができない。
 そして、明治維新後現在に至るまで一貫して被告らが道頓堀川を管理してきた事実は当事者間に争いがない。右事実と前記認定の事実によれば、明治初年の近代的土地所有制度が確立した際に本件川敷に対し最も強い支配権を行使していたのは、江戸幕府の諸権能を継受した明治政府すなわち国であつたと認めるのが相当であり、この時期に原告らの先祖が強度の私的権利を行使していたことを推認させる証拠は存在しない。従つて本件川敷は前記太政官布告第一二〇号による官民有区分の実施段階において民有地と認むべき実質を有しておらず、結局官有地第三種に該当する土地として国有に確定したものと解するのが相当である。

第三 結論
 以上要するに、道頓堀川は原告らの先祖である初代安井九兵衛道卜らの努力によつて開さくされたものであり、今日の道頓堀繁栄の基礎を築いた原告らの先祖の功績はまことに多大である。しかしこのことと本件川敷の所有権の帰属とは別個の問題であつて、既に述べたとおり本件全証拠を詳細に検討してみても、原告らが現在本件川敷につき所有権を有するものとは認めることができない。
 そうすると、原告らの本訴請求はその余の点について判断するまでもなく理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条九三条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 奥村正策 寺崎次郎 山崎恒)
別紙物件目録 〈略〉


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