2002.8.25
もう一つの情報公開
――内なる情報公開――
(1994.4) 今、石川県で知事選挙がたたかわれている。争点は本来いろいろあるが、選挙戦で政策論争なんてものは、あまり重視されず、あいかわらず「**をお願いします」の連呼型である。
新しい知事が誕生すると、石川でも「環境アセスメント条例」と「情報公開条例」がすぐにも日程にのぼると思われる。私も、情報公開の問題は大いに関心を寄せ、「情報公開を考える会」にも参加している。この情報公開に関して、全く逆の発想からこの問題を考えてみた。以下、いろんな市民運動、環境保護運動にも関係するので紹介したい。(この文章は未完。資料(文献)の裏付けもしてまとめたいと思っている…)
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私たちが、行政に対して「情報を公開すべきだ、これを制度化すべきだ」と要求するのは、環境問題を始め様々な市民運動、住民運動にかかわるものとして当然のことである。行政は「本来」、市民・住民から委託され、住民に奉仕する制度として存在するはずであるから、個人のプライバシー以外は皆んな公開が原則だ。(この「本来」というところが「ミソ」で、行政組織の発達の歴史は、徴税と徴兵のための機構であったたため、近代民主主義制度とのギャップを埋めるため、行政側も四苦八苦しているのであろう)
私たちの運動が実り、情報公開が情報非公開制度にならないことをいのるばかりである。
この文章、題を「もう一つの情報公開」としたのは、今問題になっている「情報公開条例」のことではない。「情報公開」というと「行政」に対するものだけと考えるのは短絡的で、私は「情報」をもっと広く考えたいと思っている。「内なる情報公開」とでも名付けることができようか。かつて天皇制論議で「内なる天皇制」という話があったが、それをもじってみたのである。
住民運動、市民運動にかぎらず、町内会、自治会、PTA、企業、政治組織、経済団体……、ありとあらゆる場面で人は組織をつくり、その総意で動く。互いに対立することもある。姿・形は違っていても人が作る組織だから、意志決定のプロセスは似ている。
組織運営、意志決定システムの最悪のケースと考えられるのはワンマン型だ。
ワンマンがすべてを仕切り、反対者を排除する。これは人権問題だともいえる。こう書くととんでもないと思うが、こうしたことはよくある話だ。一代創業型企業に多いかもしれない。いちおう会議を開き議論をするのだが誰も異論を唱えないから、結果としてこうなる。組織の形成過程の問題もあるが、これでは人材も育たない。
情報のあり方もワンマン型特有だ。ワンマンに情報が集中しているため、議論がなりたたないのだ。その組織にはイエスマンしか必要としない。このワンマン型の対極に「民主的運営」というのがある(後述)。
その他いろいろなケースをあげてみる(その組織運営に関わる人の善意から出発することも多いのだが……)。
・運営をスムースにするため反対情報に触れない。
・政治的色分けをして先に情報(人間)を排除する。
・時間的制約や事務の煩雑さから手続きを省略する。
・結論が先にあり、その結論に到達するまで会議が進め られる。
だから、やたら長い話しあいをするが中身がなく発展がない。こうした議論は疲れはて、虚しくもある。
組織のあり方にもいろいろある。
・組織の内と外の区別があいまい
・会計処理があいまいであり、末端まで知らされない。
・特定個人にまかせきり
・根回し(談合)で先に決まっている
企業など、トップで情報の独占が図られ、その情報にうまくありついたもの、あるいはトップに有利な情報を提供出来たものが出世する。よくある話。金が動いたり、オンナが裏で登場したりする。談合の世界もこの類に属する。
交渉ごとも市民運動、住民運動につきものだ。代表がみんなの「声援」におくられて乗り込む。あるいは「事前折衝」の打ち合わせに行く。相手にすればもめたりしたくないものだから丁重な応対をする。ふかふかのソファーに座ってコーヒーなどをいただく。「わざわざ出向いていただいてご苦労さんです」から始まって「実は、ここだけの話なんですが……」と持ち出されたりする。「ここだけの話」という情報は、ここ以外では隠さなければならないということが常識だ。ここで「情報公開」の精神は活かされなければならない。「公開してもいい話」以外の情報は取り合わないことが原則だ。ここをあいまいにすると知らずのうちに「ボス交渉」にのめり込む。相手方からは「話の分かる人」と信頼されるが、身内から相手にされなくなる。
共生という言葉が最近よく使われる。自然と人間との共生、動物と人間との共生などは理解しやすいが、人間と人間との共生というのが大問題だ。民主主義の精神の一つにこの人間同士の共生がある。「民族自決権の保障」というスローガンはこの共生の理念の政治的表現だろう。
この「人間同士の共生」を、例えば日本で考えるとどうもしっくり来ない。共生の前提になるのは、その「主張や生き方」をまず互いに認めあうことだろう。ところが「主張しない、はっきりものを言わない」多くの人に囲まれていて、議論をしても何が争点か、解決すべき事は何か分からないことが多い。平和主義者が多く、対立をさけようとして、議論が進まないことも多い。これには、情報のあり方が潜んでいる。基礎情報が共有出来ないため議論にならないのだ。これなど、会などの運営に関わる人の善意であろうが、なるべく内部対立にならないように配慮するあまり、意志決定課程を省略してしまう。
対立を克服するマニュアル本をよく目にするが、対立の解決の前にまず、対立を鮮明にすることが望まれる。それなくして克服はあり得ないからだ。私たちのまわりの小さな社会でも初歩的に大切なことではないだろうか。会議で大きさな声が勝利しがちなのは、共有情報の少なさと会議参加者の不勉強、対立を鮮明にしない平和主義者の集まりだからだろう。
民主主義とはなにか、と考えるとき、第一番目にこの情報問題をあげたい。「東欧の崩壊=解放」は情報の「公開」がもたらしたことを想起すべきだろう。組織にあってこの民主主義を考えるとき、「トップと一般会員が同じ情報を共有する」と言えるのではないか。
「ワンマン型決定」に対して「民主的運営」というのがある。これも実際の中味を吟味してみるとワンマン型であったりする。対立を避けるための方便であったり、談合型であったりする。
「トップの一貫した意志(=方針)で「組織」は動くが、意志形成までのプロセスは多様な価値観の反映が保障されなければならない」というのが私の結論だ。その前提は「トップと組織の末端は同じ情報を共有する」ことだ。情報共有のない意志決定は動きにならない。
こう書くと面倒なことのように感ずるが、なんのことはない常識的なことをすればいいということだ。私はこれを「常識的運営」と名づけたい。
@何でも話し合う(持っている情報をどんどん提供する)
A秘密を持たない(公明正大な人生!)
B約束を守る(これが意外に難しい)
C互いに助けあう(忙しいもの同士だからなおさら)
Dおおいに対立する(いやがるのは我々の悪い癖だ)
E小さなことでも話し合う(感情問題になる前に解決を)
F話しあいの中身はきちんと記録する(情報公開の原点か?)
G運営、活動の中身が内・外に知らされている(情報公開だ!)
◆内なる情報公開が民主主義を本物にする
こうした問題で中国の研究者と話したことがある。彼は中国の情報閉鎖社会を批判しつつ、情報の公開と共有は民主主義の根本との私の論に賛成し、「こういうテーマで民主主義を語るのを初めて聞いた。一冊の本になるのではないか。是非研究して欲しい」と――。で、この文章を書き始めたのだが……。
組織はどうも男性論理が支配しているようだ。男というもの社会的に極めて無知だ。近所つきあいがない、台所事情に疎い、炊事、洗濯、買い物など人間生活の基礎的活動の面で女性の足元に及ばない。子供の教育についてもしかり。社会を動かしているという自負心だけは強く、気に入らないと暴力を発動する。自身の社会的ハンディを自覚すべきなのだ。女性論理の復権が望まれる。
ある本に、「組織の中で男たちが自覚すべきいくつかの問題」というのがあった。
「男たちは、
@大文字で話す。自分自身で出した回答や意見を最終的結論として述べる。これはしばしば声の調子やジェスチャーによって拍車をかけられる。
A言い直す。誰か他の人、中でも女性が完璧かつ明確に述べたばかりのことを別の言い方で言う。
Bひとりよがり。他人の発言の最初のひとことふたことで返事を考え出し、その後の発言には耳を貸さず、すぐに割り込もうとする。
C他人をへこます、あるいは一枚うわてに出る。「以前は私もそう信じていた、が今では……」とか、「どうしてそんなことが言えるんですか?」
D他の男性と言い争っている時に、女性の注意や支持を求める。
E気持ちをごまかす。個人的気持ちを分かちあう段になると理屈で説明したり、逃げ込んで受け身になったり冗談を飛ばしたりする。」
「う〜ん」と思わずうなってしまう。
これは『グリーンポリティクス』(緑の政治学・青土社)からの引用だ。シャーリーン・スプレッロナク、フリッチョフ・カプラがヨーロッパの「緑の党」と呼ばれる一連の環境運動で政治参加をめざす人たちの実態を克明に調査した著作だ。
新しいテーマが出来た。議員活動と市民・住民運動との関係だ。これにも深く情報問題が絡む。
(1994.4)
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