2002.8.25
コメ不足と環境問題
(1993.12) コメ不作の話。
今年の冷夏で、東北を中心に稲作は全滅。平成飢饉と言う人もいる。農業団体や革新系団体が「これは人災だ、政府の無農政の結果だ」と批判。しかし、人災だ!と叫ぶ言葉の激しさにくらべ、その人災の根拠を示したものはあまりにも少なかったのが気になっていた。
十月のニュースステーションの特集で、これを検証していた。昔から冷夏はあった。低温より日照時間の方が稲作に影響を与えること、日照時間が今年より少ない年があったが、作は平年並みであったこと…等々。なぜ今年の収穫が異常なのか。
その結論は、単一種類の米を作ることにあった。江戸時代の青木昆陽の農業指導書などにも、気候変動を前提にして、米作りは多種を植えるべしとの教えがあったという。事実、多品種の稲を植えている農家は平年をわずかに下回るだけであったと報告していた。ここに人災の根拠があったのだ。確かにノー政の結果、高く売れる「コシヒカリ」などに農家の作付けが集中したのだ。先人の教えを無視した結果である。
同時に、稲が本来もっている野生を引き出す自然農法を実践している農家の収穫は平年並みだったことも今後の農業に示唆を与える。
「人災だ!」と叫ぶだけのアジテーションより、このような地道な調査と実践が百倍も意義がある。
ノー政と言うが、補償金や補助金をばらまき、自民党と一緒に農業つぶしをしてきた農協ボスがいる(この構図は原発推進と同じだ)。今になって農協が「米輸入反対署名」を回しても白々しい限り。ボス連中を野放しにしてきた自身の責任を自覚しなければならない。教育もあり、普通選挙も保障されている日本であるにもかかわらずにだ。
イ農協の天に唾した米不作
話を変える。
昨年から今年にかけて環境問題について大きな動きがあった。昨年六月、ブラジルで国連環境開発会議が開かれ、各国間の利害の対立から、不可能視されていたが、「持続可能な社会」を前提にした地球環境を守る行動計画=アジェンダ21を取り決めた。内容は、アメリカや日本の消極的態度から大きく後退したが、新しい息吹を生んだ。
特筆されることは、この会議に向けて各国の草の根運動体が環境問題の表舞台におどりでたことだろう(NGOと言う言葉も市民権を得た)。国際的な市民団体のフォーラムは、画期的な「地球憲章」を採択。過去のどの会議以上の成果をもたらした。日本でも様々な団体が連絡会を組織した。今年に入り、日本のグループは「市民フォーラム2001」として再結集している。
アジェンダ21は国別行動計画策定を求めているが、去る十一月政府は素案を発表、国民から意見を求めた。その期間はたったの三週間。当然大きな批判が起きた。事実、私がこの事を知って環境庁にFAXを入れ、素案の送付を求めたが、期限を経た現在、未だに届いていない始末なのだ。
が、全国から細部にわたって百通以上の意見が寄せられた。政府は百カ所以上を修正の上原案を決定した。こうした修正は前例がないという。
批判が集中したのは原発問題。政府案は「低環境負荷エネルギー」として原発推進をうたっているが、それに対し、市民団体からは、原子力は地球温暖化対策にはならない、放出される放射能は環境負荷要因となること。原子力に依存しない再生産可能エネルギー体系への転換を求めた。
そもそも、原発は石油エネルギーを集約したものである。建設と維持に石油を消費し、石油の枯渇と同時に終焉する性格のものである。また熱交換効率が火力より悪いため、地球温暖化へプラスに働く。この、歴史的には海水の一滴にも満たない原発により膨大な放射能が地上に蓄積される。地上の生態系から一人外れた鬼っ子である。プルトニウムを使えば、百万年単位でその管理を強制される。人類の百万年先など想像できないし「持続可能な社会」とはとても言えない。原子力の平和利用という言葉が死語となる日を願っている。
イ百万年プーを管理するつもり(プー=Pu プルトニウム)
(和川柳社通信掲載 1993・12)
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