2002.8.25
奇妙な感慨……
Think Globally, Act Locally を実感
(1995.1)

 十五年前に現在地に転居した。それまでは金沢駅近くで交通量も多く、子どもには危険が多かった。娘が五歳のとき、家の前を流れる用水に転落し奇跡的に助かったのをきっかけに、あちこち探した結果、河北潟に近い現在の住居・北間町に引っ越した。まわりが田圃で、子供たちも暗くなるまで外を駆けめぐる活発な子どもに変身したのは期待以上であった。
 この家は、前の持ち主が近くに大邸宅を建てたため空き家になっていたもので、農器具などを格納した大きな空間がある。これを利用しようと印刷屋を始めたのも私の人生の上での大転換でもあった。
 この転居は、わが家族の個人的な事情であったが、私がいま参加し、考えている環境問題と因縁めいた深い関わりを感じている。

 この金沢の北部の田園地帯は、二十五年前までは縦横に水路が走る水郷地帯でもあった。秋になると収穫した米を運ぶ小船が行き交った。私も小さいときよく河北潟へ釣りやボートあそびに通った。もちろん干拓前で、湖岸の葦に霞がかかって、対岸が見えない広い河北潟がそこにあった。

 最近、環境問題にどっぷり浸かっていて「環境をやっているカンさん」と紹介されることが多いが、もともと私の関心事は人権問題や第三世界問題だった。そのきっかけはいいかげんなもの、自営したてのころ片町のスナックで隣に座ったバングラディッシュ人との出会いからだった。
 この遠い異文化の国から来た目玉の大きい男は、自国の美しさと豊かさを話した。冬から春へ一日で劇的に変わる様子やバングラディッシュに六つの四季(?)があるのを話した。私の知識では最貧国のはずであった国の豊かさを知った。この自国の豊かさを語る男に比べ、私が外国へ行ったときどう日本について話すだろうか? おそらく、大量生産、大量諸費、大量廃棄の国、ビルとゴミの町、緑を失った山、水のない川、福祉や教育の貧困、家庭の崩壊、個性を失った会社人間……などをきっと話すだろう。そして日本に未来はない、とつけ加えるに違いない。この男との出会いが第三世界問題に興味を持つきっかけだった。
 八年前、ピープルパワーで有名になったフィリピンのエドサの革命の年、金沢市主催で国際理解講座が開催され参加した。日本の七〇年代の高度経済成長政策がフィリピンの熱帯林を消滅させたことを知った。何かしなければと思っていた私は、講座に参加していた二十名ほどで市民グループ「パナナグタン(責任という意味)」に参加。マニラのスラムで女性の自立を助けるプロジェクトに参加していた。

 八〇年代に入って外国から環境保護運動の活動家が、日本の各地を訪れ始めたのは偶然ではない。日本の高度経済成長政策が地球的規模で荒廃をもたらしていたため、日本は世界的なNGOの攻撃対象になっていたからだ。金沢にもアンニャ・ライトという熱帯林保護運動の活動家の講演会が開かれた。この時、事務局を引き受けたのをきっかけに自分の社会的活動のテーマは環境問題だと感じた。その後「地球の友・金沢」「石川環境ネットワーク」に結成に参加した。
 環境問題と自分との関わりを決定的にしたのは九二年六月の国連環境開発会議。
 このころになると県内でも自主的に環境問題に取り組むグループも増えてきた。この国際会議を単なる地球の裏の会議にしたくない思いもあって、「地球サミット in いしかわ」の事務局長をかって出た。準備に半年をかけ、多彩なメンバーの参加を得て、提言をまとめることが出来た。私にとって県内の環境問題を考える基本資料のひとつになっている。

 環境問題を考える視点の一つに「Think Globally, Act Locally」というのがある。私はいま、河北潟周辺から姿を消したミズアオイやオニバスなど、絶滅寸前の水草の再生にとりくもうとしているが、ここまでの自分を振り返ってみると、あれこれと「Think Globally」してきて「Act Locally」にたどりついた、という実感を持っている。
 新聞やTVに取り上げられたこともあって、ミズアオイやオニバスについて知らない人から電話があったり手紙をいただく。私の住む村の人からすれば「オヤマ(村の人は金沢のことを尾山と呼ぶ)から来たヘンなよそ者」の私に、村のご老人から激励をいただく。道を歩いていると「ちょっとアンタ、テレビに出ていたね」から始まって、「昔、あそこにあったよ」などと情報の提供をいただく。

 私がミズアオイと出会ったのは本当に偶然。知人の理学部の院生・栗原氏が松任の海岸でミズアオイ見つけた。それを小耳にはさんだので後日、花の好きな妻と一緒に写真を撮りに行った。うまく撮れたので娘に自慢げに見せたところ「昔、小学校の横にいっぱいあったよ」というではないか、ガーンと脳天に一発お見舞いされた気持ちであった。早速教えられた場所を見に行った。いまでも咲いているではないか! 写真と同じようにきれいに咲いている。それも半端じゃない、何十株と群生している。
 その日から毎日、仕事を終わって犬の散歩を兼ねてミズアオイ捜し。懐中電灯片手に夜中まで、かなりの範囲をまわった結果、五カ所で確認。写真をもって村の人にも頼む。
「昔はたくさん咲いていたね。邪魔になってよく採ったね」と誰にも言われ「そういえば最近は見ないね」と必ずつけ足された。
 そうこうしている時、隣の人が河北潟近くによく似た花が群生していることを教えてくれた。一緒に確認に行った。ここは見事、幅二b長さ百bの水路にびっしり咲いている。湖沼問題に問題意識を持っている北陸朝日放送のK女子が情報を聞きつけ、石川県自然保護協会の木村会長を同行して取材に来た。HABの放送や朝日新聞の記事で、私のミズアオイ捜しは一挙に広がった。北は七塚町、南は小松市。寄せられた情報をすべて足で歩いて確認した。二十五カ所になった。「こんなにたくさんあるのでは希少ではないな」と冗談も出そうだが、実際はほんの数株がひっそり咲いているのがほとんど。金沢の某所では一カ月前、道路の拡幅で五十株ほどが舗装の下に消えた。

 オニバスの情報ももたらされた。母親の老人会仲間で遊びに来ていた村一番の長老のじいちゃんが、昔オニバスが咲いていた水路の位置が確認できるというのだ。寒い雨の日、金大の院生の栗原氏に同行願って見に行く。埋め立てた二十五年前の水路の位置に小さな標柱を打ってある。いまは田圃だがこの下には確実にオニバスの種が眠っているはずだ。神戸大学理学部の角野康郎助教授の資料によると、埋まっていた七十五年前の種が発芽した例があるという。ここの発芽は確実のはずだ。栗原氏の指導でさっそくオニバスの種子発掘の計画書を作りはじめた次第。村の長老も大乗り気である。
 振り返ってみると、私がミズアオイやオニバスと出会うまで、たくさんの偶然が直線的に結びついている。娘が水路に落ちたこと、現在地への転居、バングラディッシュ人との出会い、フィリピンのエドサ革命、パナナグタン結成、「地球サミット in いしかわ」、栗原氏のミズアオイ発見、たまたま私がそれを知ったこと、写真を撮ったこと、娘が花を知っていたこと……。その一つでも欠けていれば、出会いはなかった。偶然といえばそれまでだが、奇妙な感慨がある。
  ………
 ここで終わるはずであったが、二日前一通の手紙が届いた。
「昔、オニバスが絶滅するというので、自宅の池で栽培し研究しました。昔採取した種子を持っています。貴君の活動にぜひ協力したい……」
 さて、大変なことになった! この情報が生かされるため、研究者を含めたプロジェクトチームをつくらなくっちゃ!(この情報はこの文章が初筆である。)

(1995.1 金沢大学経済学部ニューズレターへ掲載)

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