2002.8.25
報道における人権
――女子高校生コンクリート詰め殺人事件――
(1989.10)

 新聞報道における人権侵害について考えるきっかけになったのが、あの思い出すのも忌まわしい、いわゆる女子高生コンクリート詰め殺人事件である。
 あの異常な下血報道が続く中で新年を迎えた八九年。そして天皇の死去3日前の1月4日、少女は殺された。少年犯罪の猟奇性と残虐性と同時に、監禁殺人現場となった家人の行動から子を持つ親たちに大きなショックを与えた。
 この事件を知ったとき(当然、新聞やテレビからのみの報道)被害者の少女も不良グループの仲間だとの印象があった。テレビや新聞が「非行少女キャンペーン」をはり、「少女の外泊」と報道するなど、被害者にも責任があるという一連の報道の結果、私も含め少女の行動にも不審の目を向けたものだった。大島渚も「“監禁ゲーム”の結果ふざけて被害者になってしまった」と週刊誌でしゃべっているほどだ。
 しかし、裁判が始まってみると様相は一変した。少女にはまったく非はなく、集団の暴力的監禁レイプ殺人事件であることがあきらかとなる。同時に、現場となった犯人・少年Cと両親の住む家での、家人の無責任さが強烈に印象づけられた。あの少女が助かる唯一の道は、少年Cの両親の勇気ある行動しかなかったのであるが、その両親が共に共産党員で、母親が看護婦というのも、違和感と共に強烈なインパクトを与えた。
 一連の裁判の進行と経過のなかで報道の果たした人権侵害はあきらかとなる。「少女にも責任がある」と実名で報道した多くの報道は、犯した誤りをどうつぐなうのか。
 こうした問題を一冊の本が問う。
『女子高生コンクリート詰め殺人事件・彼女のくやしさがわかりますか?』(社会評論社発行・おんな通信社編)
 この本を読んではじめて事の真相が理解できたといってもいい。事件発覚から報道をチェックしてきた女性たちの主張、行動をまとめたものである。
 もし被害者が男であったなら、この事件は「単純」な集団監禁暴行殺人事件で、「被害者の行動も問題」という推定の入る余地はなかった。しかるに被害者が女性になるとたん報道の姿勢が揺らぐ。マスコミを支配している強姦神話(抵抗しなかったから強姦ではない…)、それを支える男社会。弱いもの差別されている側からものを見る、というごく初歩的な視点が欠落する恐さをこの事件から私は理解する事が出来た様に思う。
(1989.10「VIEW」掲載)

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