2002.8.25
作品の評価に客観性があるか
(1988.4)
川柳句評がどの川柳誌にもかならず掲載されている。この批評なるもの、多くは「私の好きな句の感想」といった程度のもので、作者に迎合したお世辞文が多く、批評というには程遠い。
私が川柳の句会に初めて出席した時、ある人が「川柳界では、うまい川柳を作れなくては評価されない。理屈がどれだけうまくてもダメだ」と発言していた。その人がどういう意味で「理屈」という言葉を使ったか分からないが、私はこの時、作品と批評の相乗効果について漠然と考えた。その後、鶴彬の評論に接し、川柳作品に対しても批評の重要性を感じてきた。
鶴彬は当時、貧困な作品の氾濫に対して、作家の才能不足、世界観の低さを指摘し、つづいて、批評の貧困、その指導性の喪失を嘆き、批判をしている。
批評の重要性を語るとき、どうしても避けて通れない一つの問題がある。これは古くから論争にもなり、今日でもよく議論になる命題である。それは「批評あるいは評価に客観性があるか」ということである。言いかえれば、「文芸作品は何によって評価されるか」ということである。もし批評や評価が、たんなる個人の好き嫌い、主観だということであれば、作家活動やその作品は自己満足的に終わるし、ましてや他人に見せるほどの事でもない。しかし自己満足的に作られたものであっても、他人の目にふれ、他人の心を打つ感動を生む作品には、客観的な力があると見なさない訳にはいかない。鶴彬の作品が五十年を経ても全く色あせない輝きを持っているのはその一例であろう。作品の何がそうさせるのか。ここに秘密が隠されているようである。
鶴彬の評論の中にこれに類する考察や、実践的な批評活動がある。また狂句として低迷していた「川柳」を現代の川柳に復興した井上剣花坊の評論活動にも、多くの問題提起が含まれている。
鶴彬の活動した時代は、プロレタリア文学運動の時代。その代表的な批評家に宮本顕治がいるが、彼の論争的評論「評価の科学性について」の中に次の一文を見つけ、同感した。
「この作品は好きであるとか嫌いだとか、感動させられたとか、退屈したとか――かかる表白を、我々は「評価」なる概念で呼ばないのである。これは、何等、作品自体が「価値」を持ち得るか否かの客観的判断には属さないことだ。芸術が人間社会に属している以上、作品の価値判断とは、一に作品の社会的存在が価値があるか否かの判断以外でない。具体的に語れば、我々が評価するとは、芸術作品が、読者に与える感動力によって、読者を高めるかどうか、――即ち、社会の必然的発展の行程に沿うべき感性的認識を与えるかどうかの測定である。簡単に言えば作品が真理を具体的形象の中に語っているかどうかの批判である。」
井上剣花坊や鶴彬が上記の評論を読んだかは定かではないが、彼らの評論の中でこうした内容のものが散在する。彼らの残した業績がまだ本格的には検討されず、現代の川柳界に生かされているとは思えない。もし彼らの評論活動が正統に現代に継承されていれば、狂句的川柳がこれほど川柳界にはびこってはいなかったろうと想像する。先輩諸氏のご意見を拝聴したい。(「川柳人」誌掲載
1988.4)
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