2002.8.25
ブラジルの地球サミットに関連して
「持続的可能」について
(10年前の資料を掲載 1996.3.5)

【注】
 全国自然保護連合が、1992年ブラジルの地球サミット直前に、これを批判する緊急アピールを発表したことがある。当時、石川県でも様々な活動が取り組まれ、その中心的な活動として「地球サミット in 石川」なる企画が進められていた。その事務局を担当していたが、この「アピール」をコピーして会合で配布される方もおられたため、このアピールに対して一定の見解をまとめる必要を感じて、書いたものである。
 時間もなく、厳密な批判文ではなかったが、10年たった現在、読み返してみると、そう的をはずしてはいなかったと安堵している。参考資料として掲載する。当時のニフティサーブのフォーラムに掲載したものである。(8/25 渡辺 寛@ナギの会)


全国自然保護連合声明を批判する

 PFF00177氏より掲載の「全国自然保護連合声明(緊急アピール)「地球サミット」の欺瞞性に対する声明」を読ませてもらった。
 一言。
 この声明の主旨はごもっとも。しかし今、全国でこの地球サミットにむけて様々取り組んでいる多数は、この点はすでに解決済みで、これを前提にし、それを乗り越えるところにある。問題は、そうまでしなければならないほどの危機感を地球環境に対して持っているという事である。
 焦点は、この機会を「利用」し、いかに各界各層に主張を広げ、多数を獲得するかの一点である。また、生命維持の地球のサイクルを崩壊から救うのにはもっともっと英知が傾けられなければならない。この会議(お祭と言ってもいい)はその第一歩と評価したい。
 「声明」が危惧している「持続可能な開発」についても、開発の前提条件に「持続可能」をつける事は、実質的に開発にnoを宣言する事にもなる。あとは力関係が決める。
 昔風に言わせてもらえば、「遠路はるばる貴重なご進言しかと賜った。さ、隣に休憩室を用意させたので、しばらく休養をとられるがよかろう」


◆保護連合の「欺瞞」声明について

 自然保護連合の声明のこと。
 前にちょっと意地悪な書き方をして川口さんには失望させたようで申し訳ありません。なにしろ「この忙しいのに何を言ってくれるか」が正直な気持ちでした。だから「ちょっと休憩室で休んでほしい」という言い方をしました。しかし、私の近辺でもこの「欺瞞」声明をコピーしてあちこち持って歩き、「地球サミットの正しい見方」という風に「宣伝」される方もいますので、無視する訳にもいかず、少し整理しました。

 確かに連合の指摘する危惧はあたっています。NGOとして参加する団体の中に、いかがわしい団体がさも環境問題にとりくんでいます、という顔をして参加します。利権目当ての感じがする団体もあります。また政治的にも国際間の「環境施策」に対する取引を中心にしたぶんどり合戦の感もあります。
 こんどのブラジルでの会議はそうした意味では手放しで賛成するわけにいかない事も事実で、幻想を持つことに対する保護連合の指摘は当たっています。しかし保護連合だけが初めてこうした危険性を発見し、指摘したわけではなく、多くの団体ではすでに自明のことだったと思います。きちんと新聞情報を整理しているだけでも分かる事です。

 ブラジルへ行く団体が各々いろいろな提言を持って参加しますが、公に発表された文書を見るかぎり、こうした問題を知った上で会議へ参加していると感じます。何故参加するのかは連合の指摘するように「茶番」とか「利用される」とか「補完物になる」して参加を拒否し、「無視」して片付けられない問題を含んでいるからだと思います。

 会議の大きなテーマは、声明が意識的に曲解しているような「環境と開発」ではなく「持続可能な開発」という命題が確認されることです。これについて「開発が中心だ。だから問題だ」という議論があります。この「持続可能」を単なる形容詞としてみるか、開発に対する必須条件として考えるかの認識の違いで大きく態度が分れます。ちょうど、環境アセスメントについて同じ様な議論があります。「アセスメントは開発の前段階の手続きだ」として環境アセスメントそのものに否定的な意見です。これも多くの自治体で施行されている条例の弱点と本来的な要件を混同した議論です。
 私は「持続可能」について、次の様に考えます。
 地球環境、地域の環境についても同じですが、保護も開発も最終的には政治の場で決着がつけられます。それをどういう政策でフォローするかが市民サイドでも問われています。開発を全面的にストップしようとか炭酸ガスを60%減らそうという政策が通ることは考えられません。生活レベルを極端に落とす事を意味するからです。これは各政党の環境に対する政策を見てもそうですし、なにより有権者がそういう主張をする候補者を当選させるはずがありません。せいぜいが「リサイクル社会の実現」とか、あれこれの「見直し」を主張する程度です。「持続可能な開発」しか現実的な政策はないのです。この視点がいままでなかったのですから。
「持続可能な開発」を国際舞台で各国の首脳が認識を一致することは歴史的に重要なことです。これが日本の環境行政をしばることはとても重要な事です。私たちにとっても大きな武器を得たことになります。
 将来、この「持続可能」のをめぐってさまざまな対決の場面がでてくると思いますが、具体的には「力関係」が決めることなので、そうは簡単には行きません。しかし「持続可能」の中身を各々の地域の活動を通して考え、追及していくことによって将来の地域の姿が決められると思います。その課程で様々な運動の形が見えてくると思います。
 まわりを見渡してみればわかるように、「環境問題に関心はあるが直接問題が降りかからない限りなにもしない」人達に囲まれているのですから、知恵が必要なのです。だからブラジルの会議についても「欺瞞性」を指摘し、「政治ショー」への参加として冷ややかにみることに対して私は疑念を表したい。幅の広い世論をつくるためなら参加の形や思いはいろいろあって良い。

 また、今回の「ショー」で重要な問題として私が感じるのは、情報の問題です。
 環境をめぐる様々な情報、データが発表され続けています。殆ど地球サミットにむけて出されたものです。貴重なデータや提案が数多くありました。
 もし「保護連合」のような視点だけの地球サミット批判派が環境運動の世論を形成していたならば、こうした情報は無視されたでしょう。私はこちらの危険性の方をより危惧します。
 先日、例のローマクラブのメドウズ博士の「すでに限界は超えた」という報告がありましたが、これなども20年前の「成長の限界」をふまえた貴重な警告かと思います(私自身は、近づく「社会システムの崩壊、人類生存の限界」を、環境を考えるテーマにしていますが)。

 ブラジルではNGOの「グローバルサミット」が開かれます。これは政府間のサミットと並行して行われる国際的なNGOの会議で、私は政府間のものよりこの会議が将来的にはより重要だと思っています。昔流の言い方で言えば「被抑圧階級と被抑圧民族の団結」による共通の意志を確認することになるのです。
 また、各国のNGOがブラジルヘ行くことによって自国の政府代表の発言をチェックする、また市民あるいは民衆、草の根グループの監視世論をつくることによって、勝手な取引を許さない力にもなる。ブラジル市民連絡会や大阪のCASAの動きなどは、その代表的な動きであって、激励こそすれ、一蓮托生にして危惧を表明しても「自然保護連合」の今回の声明は多くの環境問題に関わる団体からは支持されないと思います。
 危惧を表明することよりも(あるいは同時に)、まわりの無数の人達(本当にそう感じます)に地球環境を考えよう! いま出来る事は何か! と呼び掛ける方が余程価値があるように思います。

 以上、保護連合声明への印象程度のことになってしまいましたが、今回の声明の視点があまりにも狭い、という感じがしていろいろと書きました。
 結論的に言わせていただくとすれば、この声明は「ブラジル会議の問題点を指摘したい」という本来の目的をはみだして、「地球サミット」に関連して盛り上がっている環境の世論、運動の広がり全部を欺瞞として攻撃するだけの意味しかもっていないと確信します。
 また、もうひとつ書き加えるとすれば、この声明が正規の理事多数の賛同を得ているか、あるいは参加団体の多数の賛同を得ているか、その実数を知りたいところです。

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