七・一三水害を考える


2004.10.6 掲載
注:記事中(※)は関連写真。渡辺が便宜的に挿入した


岡本水文・河川研究所   岡本 芳美 


 河川に関する研究に携わる私は、全国で大水害が起こると、直ちに、現地に飛び、水害の勉強を行うのが常でした。しかし、今回の新潟県七・一三水害では、お年寄りの方々の亡くなられ方があまりにも痛まし<、気が重くて、なかなか出かけられませんでした。

 水害の直後、三条市の諏訪新田地先の堤防の決壊の原因について、新潟県土木部河川管理課長は、『越流決壊』、すなわち「大水の流量が川が流す事が出来る量を上回ったため、流し切れない分が堤防を乗り越え、堤防が洗い掘られて、堤防決壊が起こった」と言う見解を発表されました。この見解は、「堤防が切れたのは神様のせいで、県の責任ではない」とも取れるものであります。これについてある新聞社よりコメントを求められた私は、県の言い分に疑問を呈する様なコメントを述べました。このコメントは、相当反響を呼んだ様です。それに対して、県を指導する立場にある国の治水技術者より、一言でいえば、お前はけしからん事を言う、と叱られました。

 専門知識を持たない一般の方々は、神様が起こしたものであればどうしようもない、と考え、諦めてしまうのが常です。専門知識を持っていると自負している私も、殆どの場合、右に倣えであります。しかし、今回の水害に関しては、神様のせいにしたら、神様に叱られる部分が多々あるのではないか、と考えています。そこで人間神様のさらなるお怒りに触れる事を覚悟の上で、一般の方々に分かり易い書き方で、本水害の原因分析を試みたいと思います。


その一
堤防の決壊の原因


【刈谷田川の中之島町妙栄寺地点の決壊】
 妙栄寺地点の直上流に今町大橋が架っています(※1)。山から平地に流れ出た刈谷田川の川幅は、今町大橋より上約1キロ・メートル地点から下約500メ−トルの地点までの区間が目に見えて狭くなっています(※2)。これは刈谷田川が見附市今町と中之島町中之島の市街地の中を流れているためであります。
 この区間の堤防は、次の部分を除いては、普通の造りであります(※3)。今町大橋の直上・下流の極短い部分の堤防については、前後と同じ川幅を保つため、川の流れに面した側の形は、普通であります。しかし、人が住んで居る方の側は、垂直に近い急な石積(いしづみ)になっています(※4)(※5)。要するに、他の部分の堤防は左右対称の台形をしているのに対して、この部分は、片側がほぽ垂直の変形台形をしていまして、誠に、恐ろしくなる様な薄い堤防で、良くこれで、これまで壊れないで済んで来たと感心させられます。ただし、今町大橋の直下流の今町側は地盤が高いため、堤防は、ありません。

 堤防の決壊が起きたのは、この恐ろしい程に薄い部分ではなく、この直下流の中之島町側の元は普通の堤防であった所です。どうして「元は」と言うと、堤防の上が道路になっているその脇に東屋を造るため、最祈、堤防の人が住んでいる側の、堤防の斜面の上に、堤防と同じ高さまで土盛がされたからです。この土盛部分を地元のある方が、「スーパー堤防」みたいと表現されていました。ただし、真下にこの水害で跡形もなく飛ばされてしまった妙栄寺があるため、普通の盛り土に出来ないので、上から見ると「略コの字型」のコンクリート擁壁が盛り土を囲んでいました(※6)

 この種なコンクリート擁壁は、水を通さないため、所どころに水抜き穴を設けて、背面に水が溜まって、その水圧で擁壁が転倒しない様にするのが設計上の常識であります。この擁壁も常識通り水抜き穴が設けられていました。しかし、設計者はこの擁壁が堤防の一部分であるという認執に欠けていたためか、普通の宅地造成地等の擁壁と同じ水抜きしか考えなかった様です。
 すなわち、今町大橋直上・下流の恐ろしい程薄い堤防の右積み擁壁は、コンクリートを用いていない、とても排水の良い構造(専門的に言うと空右積み・からいしづみ)であったため、水が堤防を乗り越えていても、漏水では壊れなかったのです。

 決壊地点の上・下流では堤防を水が越えているにもかかわらず、水防活動によって決壊を免れています。また、堤防を水が越えたしるし、すなわち「越流痕跡」がはっさり残されていました。しかし。本決壊地点の直上・下流では、越流痕跡が全然見つかりませんでした。また、この地点では本格的な水防活動は、行われませんでした。
 堤防を水が越えていないのに何故堤防が壊れてしまったその原因は、盛り土のコンクリート擁壁の水抜き穴が染み込んで来た水を全部吐け切れなくなって、水圧が高まり転倒して、それが引き金となり盛り土を含めた堤防全体が、突然、一気に崩れ始めた、と考えられます。本格的な水防活動が行われなかったのもそのせいです。

 すなわち、刈谷田川の中之島町妙栄寺地点の堤防決壊の原因は、堤防の脇に東屋を建てるため行った盛り土のコンクリート擁壁の水抜きの不備にあった、と言うのが私の見解であります。もっと言わせていただくなら、なんでこの場所に東屋がなければならなかったか、と言う事です。

【五十嵐川の諏訪新田地先の決壊】
 五十嵐川は、清流大橋地点で山から平野に出て、約7キロ・メートル流れて信濃川に合流します。この間は、三つの区間に特徴的に分けられます。すなわち、上流から見て、清流大橋から渡瀬橋までの約3キロ・メートルの第一区間、渡瀬橋から新橋までの約2キロ・メートルの第二区間、そして、新橋から信濃川合流点までの約2キロ・メートルの第三区間です。

 第一区間は、三つの区間の中で川幅が一番広く、「河原(かわら)の川」と呼ばれるのにふさわしい状況です。第二区間は、真ん中に専門的に「低水路」と呼ばれている普段水がまとまって流れていて、その両脇に「高水敷」と呼ばれている普段は全然水が無い、平らな陸地があります。こう言う状況を「複断面」であると専門家は呼びます。第三区間は、三条市の中心街を貫流し、川幅が一番狭く、一見深い掘り割り状の川です。

 堤防の決壊が起こったのは、第二区間の始まりから500メートル位下流の上流から見て左側の堤防です(※)。川は、下流からでなく、上流から下流を見て、左側を「左岸」、右側を「右岸」と呼びます。五十嵐川は山から流れ出た後、堤防の間を好き勝手に流れています。しかし、渡瀬橋の地点の直上流から、普段の流れは低水路(ていすいろ)を流れ、大水になって低水路だけでは流れ切れなくなると高水敷(こうすいしき)に溢れ、両方を流れて行く様にされています。こう言うふうにすると、大水時、低水路の水深は高水敷より遥かに深くなり、ここで起こる流れの早さは、高水敷で起こるより遥かに早くなります。他方、高水敷では、その幅が十分あれば、堤防の前面の流れの早さは、零に近い状態になります。堤防は、土で造られ、表面に最初は野芝(のしば)が張られます。しかし、すぐに雑草が入って釆て、余程の手入れをしない限り、すぐに野芝は雑草に変わってしまいます。この草が大水で堤防が水に浸たった時、堤防を守る役目をします。しかし、草を張った堤防にまともに水の流れが当たった場合は、それでは抵抗しきれません。この場合は、堤防の表に石を張ったりして、「護岸(ごがん)」をします。専門家は、堤防に施した護岸を特に「高水護岸(こうすい護岸)」(※7)と呼びます。

 第二区間の始まりでは、五十嵐川は大きく左に曲がっています(※8)。すなわち、ここでは右岸側には高水敷が無く、低水路が右岸堤防の前面に釆ています。ですから、右岸堤防に沿って早い流れが生じます。そこで、これに対処するため、堤防には高水護岸が施されています。当然、低水路の右岸側は、護岸が施されています。これを「低水護岸(ていすいごがん)」と呼びます。他方、左岸側は、広い高水敷があるため、堤防には高水護岸が施されていません。当然、低水路の左岸側は、護岸が施されていません。すなわち、ここまでは、それが正解なのです。

 道路の場合、路面に誘導白線を引いておけば、車はその通り走ります。これを守らないと、普通交通事故が起こるのです。五十嵐川の場合も、見た目には誘導白線が引かれていました。人間様ならこの白線に沿って車を走らせます。しかし、相手は神様で、しかも悪い神様だったものですから、誘導白線を無視されたのです。すなわち、渡瀬橋の上流付近から大水の流れが右岸側だけに寄って行かなければならないのに、二つに分かれて、その一方が左岸側に寄ってしまったのです。この大水の流れが二つに分かれた跡は、はっ書り残っていました。悪い事に、堤防の切れた付近は、川が左に大きく曲がって、左岸堤防が突き出ていたため、早い流れにさらされないはずだったのに、それが当たってしまい、草の高水護岸ではとても耐えられず、堤防の土が洗い掘られて、段々堤防が薄くなっていって、やがて堤防が水圧に耐えられず一気に破れてしまった、と常繊的に考えられます。

 しかし、どうも、信じ難い様な、非常織な状態があったのです。この堤防の決壊地点の地先の名前は諏訪新田と言い、約500メートルの間、堤防沿いに住居がなく、堤防の下は、水田になっている所です。すなわち、この区間の堤防は、すこぶる見通しが良いのです。所が、その中間付近が数十メートルにわたり、考えられないのですが、低くなっていたと言うのです(※9)。この地点の堤防の決壊では、水が堤防を超えて水田側に流込んだ跡、すなわち「越流痕跡」がどうしても認められませんでした。ですから、前に述べた様な常識的な見解になったのです。大水の最高水位の痕跡は、この区間の決壊していない堤防の上面、専門的には「天端(てんば)」と言いますが、それより相当下であった事は確かです。こうすると、堤防から大水の流れが水田の方に流れ込んで堤防が決壊したのに越流痕跡が認められない、という事の説明が付きます。先に、大水の流れが二つに分かれたと申しましたが、そのきっかけは、低くなっている堤防からの大水の越流の開始により、そこに向かう集中した流れが発生したためである、と考えられます。

 すなわち、五十嵐川の諏訪新田地先の堤防の決壊原因は、新潟県土木部が言う通り「溢流破堤」であった、と考えられます。ただし、その原因は、信じ難い堤防の局部的な高さの不足にあったと言わぎるを得ないのです。この地点の堤防の決壊は、堤防管理が正常に行われていれば、起こり得なかったもの、と考えます。


その二
治水ダムが二つもあるのに何故堤防が壊れたのか


 三条市の諏訪新田地先の堤防が決壊して大被害が発生した五十嵐川には、洪水を防ぐため、上流に笠掘と大谷の二つもの治水ダム(法律的に言うと、「特定多目的ダム」)が造られており(※)、沿川住民の方々は、もう五十嵐川では、どんなに大雨が降って、どんな大水が出ようと、堤防が切れて水害が起こる様な事など起こらない、と考えておられたのではないでしょうか。

 笠掘ダムは三面(みおもて)ダムに次ぐ新潟県では二番目に古い治水ダムです。このダムだけでは五十嵐川の水害を防ぐには不十分なため、追加のダムの建設が計画され、十年程前に大谷ダムが完成したものです。私も、このダムの重要性を強く認識し、その工事が竣工した事を大変一喜ばしく思っていました。

 しかし、出来上りを見て、ぴっくりしてしまいました。と言うのは、日本国で造られている治水ダムには、その運転方式(大水を溜め込んで下流に流さない様にし、下流で起こる大水を小さくする方式)から、「自然調節方式ダム」、「一定量放流方式ダム」、「一定開度方式ダム」、「一定率貯水方式ダム」の四種類があるのですが、大谷ダムが最初に掲げた自然調節方式ダムだった事です。後の三者は、ダムに開けられた太い穴(これを専門家は「放流管」と呼びます)に大水を調節するゲート(門扉)が備えられていて、大水の際、下流の状況に応じて大水の一部を下流に流しながら、残りを貯水池に溜め込んで、下流に流れて行く大水の流量を少なくする、すなわち「大水を調節」する事が出来る仕組みになっています。これに対して、自然調節方式ダムでは、ダムに太い穴だけが開けられていて、ゲートが無いので「穴あきダム」(※10)(※11)とも呼ばれ、ダムの完成後は、人為が加わらない様になっているダムです。

 この結果、今回の水害で五十嵐川ではどの様な事が引き起こされたかと言うと、笠掘ダム(※12)では、大水の始まりと共にダム貯水池に流れ込んで来た大水の内で下流に流しても差し支えが無い分を、ゲートを操作して、放流管(※)を通して下流に流しながら、残りを貯水池の中に溜め込んで行ったのです。予定通り事が進めば、貯水池が大水で一杯になる相当前に大雨の最大が来て、大水の終わり頃に貯水池が最大限満杯になるはずでした。しかし、今回の大雨の量が多かったため、あっという間に貯水池が満杯近くになって、ダムの上から大水が溢れそうになってしまったのです。そこで、ダムの最上部に備えられている非常用のゲート(※13)を開いて、放流管と併せて、貯水池に流れ込んでくる流量の全量をそのままダム下流に流したのです。この状態を「ダムがパンクした」と言う様な表現の仕方で専門家は呼びます。

 他方、大谷ダムは、貯水池に流れ込んでくる水を下流に放流管を通して少しづつ自然に流しながら残りの分を貯水池に溜め込んで行って、予定通り、貯水池の水位は大水の終わり頃に最高に達したのです。ただし、大谷ダムでは、笠掘ダムと大きく違って、貯水池の最高水位が計画の最高水位より3メートルも下だったのです。すなわち、大谷ダムは、貯水池に約四百万立方メートルもの空の部分が残して、パンクしなかったのです。この事は、この度の五十嵐川の水害において重大な意味を持つものなのです。

 今、大谷ダムの放流管に、普段は使わない非常用のゲートが備えられていて笠掘ダムが満杯になった時点から、笠掘ダムに溜め込むことが出来なくなった水量の内の約毎秒二百立方米分を大谷ダムが受け持ってくれて、数時間の時間稼ぎをしていれば、諏訪新田地先の堤防の越流決壊は起こらないで済んだはずなのです。

 大谷ダムを自然調節方式ダムに計画した理由は、人間が大水を調節する方式のダムは運転が難しくて(笠掘ダムの様な一定率貯水方式ダムは特に難しくて)、運転を失敗する可能性があるのに対して、自然調節方式ダムであれば、一切人為が加わらないので、運転が間違え様無く、したがって責任問題も生じないからでしょう。

 ダムが無かった川に、ダムが始めて造られたのなら、それで良いのです。しかし、五十嵐川の治水事業は、綱渡りをしている様なもので、特に、先に述べた三つの区間の内の第三区間の堤防が切れた場合の被害は計りしれません。文字通り仲良く並んでいる笠掘ダムと大谷ダムが連携して有機的に大水に当たる事が五十嵐川では絶対的に要求されていました。

 もし、笠掘ダムと大谷ダムが連携して運転されていて、なおかつ下流堤防に局所的に低い部分がないのに、堤防が越流決壊したのなら、今回の水害をもたらした大雨は未曾有の大雨であって、それを神様のせいにしても神様はお怒りになりませんでしょう。

 大谷ダムの計画は、新潟県土木郎が単独で立てたものではありません。県より、一桁以上技術程度が高い国の河川技術者が絡みながら、どうしてこんな事になってしまったのでしょうか。1000億円になんなんとする巨費を投じて造った治水ダム群がその効果を発揮し得なかったと言う事実は、厳しく総括されるべきです。


その三 悪臭問題

 堤防が切れて、川から泥水が溢れた後は、どこでも多かれ少なかれ臭いものです。しかし、今回の五十嵐川の洪水の場合、その臭さは尋常でなく、被災された方々を大変悩ませています。では、刈谷田川の中之島町妙栄寺地点の決壊の場合はどうでしたでしょうか。私には、多かれ少なかれ起こる普通の臭さと同じにしか感じられませんでした。結論から言うと、この異常な臭さは、笠掘ダムが引き起こしたもの、と考えられます。

 笠堀ダムと隣り合わせに早出川(はやでがわ)ダムと言う治水ダムがあります(※14)。もし、大雨が早出川流域に降って、早出川ダムがパンクし、下流で破堤したら、被災地では、もっと臭い匂いがしたはずです。しばらく、早出川ダムを例にしながら、この間題を論じて見ましょう。

 早出川ダムの貯水池に雨水が集まって来る範囲を早出川ダムの流域と呼びます。「早出川」と言う名前は、雨が降るとすぐに川の水が増える、すなわち「すぐに水が出る」と言う事に由来しているのだ、と私は勝手に決めています。どうして早出川では水がすぐに出るかと言うと、早出川の上流の山々は禿山がとても多いからです。

 普通、「禿山」と言うと、今まで生えていた木が切られてしまって、山が裸になっている状況を思い浮かばせます。しかし、早出川上流域の場合、山が裸になっている場所は、山の本体を構成する岩盤が露出して、大昔から木が全然生えていない所なのです。早出川上流域の様な状況は、日本の国の他の地域ではめったに見られません。こう言う所を専門用語では「露岩(ろがん)」と呼びます。ここに雨が落ちたら、地面に染み込まないで、たちまち川に流れ出ます。昔から木が生えている所ですと、雨は一旦全部地面に染み込んでしまいますから、染み込むと染み込まないの差は大きいのです。

 早出川の上流域、すなわち早出川ダムの流域においては、露岩の占める割合が驚く程大きいだけでなく、それが一か所に固まっているのではなく、帯状に、あるいは斑状に分布しているのです。山が全部木で覆われていると、秋になって生じる落ち葉は、木の下に降り積もって、そのまま腐って行きます。しかし、露岩が帯状・斑状に分布していると、木で覆われた地帯の縁に生えた木の落ち葉は、相当部分露岩の部分に落ちます。また、吹き抜けて行く風で木の下に落ちた落ち葉の相当部分が露岩の部分に舞い出て行きます。その結果、秋の終わりになって、強い風が吹くと、空は舞い上がった落ち葉で暗くなる程です。小鳥の大群が空を真っ黒にしながら飛ぶ情景を時々見る事が出来ますが、それに近い情景が見られるのです。

 舞い上がった落ち葉は、谷川に殆ど、降って来て、この時季の谷川は、大袈裟に言うと、水が流れているのか、落ち葉が流れているのか、どっちなのかと言うくらいになります。もし、下流にダムが無ければ、この落ち葉は、分解されながら、果ては海まで流れて行ってしまう訳ですが、早出川の場合、ダム湖の底に全部沈殿してしまいます。早出川ダムが出来て相当の年月が経ち、今や、ダム湖の底全体が落ち葉で厚く埋め尽くされているのです。

 南西日本のダムの様にダム湖の水温が一年中高ければ、この落ち葉も分解されてしまうのでしょう。しかし、東北日本の縁にある早出川ダムのダム潮の水温は、秋の終わりから春までは極めて低いため、落ち葉はそのままそっくり堆積しています。しかし、春が過ぎ夏が来て、ダム湖の水温が上がり始めると、腐り始めて、すなわち水中なので無酸素発酵をし始めて、色が真っ黒になり、亜硫酸ガスが発生し、果てはへドロになります。その結果、ダム湖の水が黒色に代わり、ちょくちょく完全腐敗していない落ち葉の塊が浮かぴ上がって、人間が乗っても沈まない、大きな浮き島になり、ダム湖を漂うのです。

 早出川流域に隣り合う笠堀ダム流域でも、同じ事が起きています。ただし、笠掘ダム流域における露岩の占める割合は早出川流域におけるより少ないので、ダム湖の底全体に落ち葉が溜まってしまうと言う状況は、発生しておりません。細長いダム潮の上流側に限定されていた様です。

 今回の大水では、笠掘ダムはパンクし、ダム潮に流れ込む大水をそのままダムから放流してしまう状況が長時間続きました。その結果、細長いダム湖の上流側に溜まっていたへドロが全部洗い流されて、五十嵐川を流れ下り、堤防の決壊口から氾艦区域に流れ込み、溜まって、あの要臭を生じた、と考えられます。

 なお、笠堀ダムは、長年かけて溜め込んだへドロを一掃してしまったため、洪水直後のダム湖の水は、何の匂いもしませんてした。


その四
今回の水害をもたらした大雨は未曾有の大雨であったか


 新潟県土木部は、今回の水害をもたらせた大雨は、未曾有の大雨であった、と言う見解を盛んに流している様です。たしかに、今回の大雨は、この地域ではここしばらく起こらなかった大雨である事は、確かです。

 新潟県で起こった大雨で未曾有の大雨と言えるのは、昭和四十二年に羽越水害をもたらした大雨の事でしょう。
 この大雨では、胎内川流域の胎内川第一ダム地点で、一日間強(三十二時間)の間、総量で七〇二ミリ、時間最大で九〇ミリの雨が降っています。そして、百十三名の方が亡くなられ、三十三名の方が行方不明になっています。

 今回の洪水をもたらせた大雨は、羽越水害をもたらした大雨とは比較になりません。新潟県では、羽越水害をもたらした大雨に近い大雨が降り得る気象条件が数年に一度は起こっています。
 この県下で数年おきには起こっている大雨は、前線が、新潟県地方を横断して、しばらく停滞した後、急に動き始めた時に起こる様です。この事をある新聞の投書欄で指摘されいる方がおられました。
 この様な大雨の発生は、やる気さえあれば、予測し、予報出来ます。今回の水害を契機に新潟県は予測・予報体制を樹立すべきだ、と思います。


その五
今回の水害で得た教訓


 今回の水害をもたらした大雨は、「数百年に一度の大雨」などと言っている万が居られる様ですが、しかし「数十年から精々百年程度」であろう、と私は考えています。そう私が考える根拠は、専門的になり過ぎているので、ここでは、省略させていただきます。

 気象学的に言うと、大雨の量の上限は無い、のだそうです。羽越水害をもたらした大雨は、二百年に一度程度であろう、と私は見ています。ですから羽越水害をもたらした大雨以上の大雨が新潟県で降るのは、確率が小さいにせよ、十分あるのです。そして、それが、来年であるのかもしれません。

 どんな大雨が降ろうと、人口密集の市街地で大水を氾濫させてはならない、と言うのが私が今回の洪水で得た教訓です。しかし、数十年程度の確率の大水でさえ、それをまともには、なかなか出来ません。流域の中には、川沿いに、「大水を人為的に氾濫させ、水害を起こしても、被害が軽微で、回復が容易な土地」が必ずあります。いたずらに川幅を拡げ、堤防を高くし、ダムを造る、のではなくて、数十年に一度程度以上の大水に対して守るペき所を決め、それ以外の所では大水を人為的に、氾濫させ、その結果発生した経済的被害は、税金で保証する制度を作るべきであろうと思います。