犀川の水害と堤防
―――古文書「金澤古蹟志」から考える―――


2004.9.7 掲載
2004.9.17 追補

2004.9.23 追補(第16巻)


以下の資料は、「金澤古蹟志」から犀川に関係する部分を抜き書きしたものである。
治水に不可欠な堤防の強度を考えるには、その築堤の歴史を知るのが不可欠。永年の農耕と河川管理、自然災害とのイタチゴッコのように続けられてきた営みの結果できあがった堤防。
当然、堤防には強弱様々ある。水害はその一番弱いところを突く。
現代人は、これまで川に関わってきた多くの先人の努力を、いつしか遠い歴史の片隅に置き去りにし、河川管理は行政がおこなうもの、として忘れてしまったかのように思う。

河川管理は周辺住民にとっては生命を守る作業と不可分であるはずなのだが、管理権を行政に空け渡してしまった結果、自治もなく自助努力なく、ただ行政にすがるのみ。情けないではないか。
川を住民にとりもどしたい。その作業の一貫として、犀川の堤防と水害、農業用水などの歴史を掘り起こしたい。

以下の資料「金澤古蹟志」は、市や県の図書館、県議会図書資料室にある。金沢市のあらゆる地名、由来、事件などが地域ごとにまとめられているので、読み物としてもおもしろい。
時々難しい単語が出てくるが、それまた楽し。直接関係する記事は青色にした。
記事中によく出てくる漢字「舊」は、「旧」の古字です。

第十五巻記事中に出てくる、犀川の堤防の土を取った場所「土取場」とはどこであろうか? 検索では、3つの町名が出てくる。→ 土取場Google検索
 ・土取場城端町(つちとりばじょうはなまち) → Googlel検索
 ・土取場永町(つちとりばえいちょう) → Google検索
 ・土取場撞木町(つちとりばしゅもくちょう)
     【◆詳細は別ファイルで紹介】


「金澤古蹟志」第15巻、第16巻より抜粋  

金澤古蹟志第十五巻

城南河原町犀川上筋
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○犀川堤防事略
○土川除
○油瀬木
○藤棚成福寺門前
○藤 棚
○藤棚白山神社
○藤棚之藤 
金澤古蹟志第十六巻

城南片町傳馬町筋
 ―――――――
○片 町
○香林坊橋
○犀川小橋天神舊地
○香林坊橋占傳話
○香林坊橋番人
○香林坊木戸跡
○中河原町
○中河原郷
○木倉屋長右衞門傳
○犀川橋
○犀川橋梁事略
○犀川
○犀川産魚
○犀川河原奇事

金澤古蹟志第十五巻

 城南河原町犀川上筋


○犀川堤防事略
源平盛衰記巻七に、越前・加賀両國の間に四つの大河あり。廳参の時洪水の為に人多く損じければ、是は廳の遠きゆゑなりとて、嵯峨天皇の御宇弘化十四年に上奏を経て、加賀國と定むとあり。右は類聚三代格巻五に載せられたる弘仁十四年二月三日太政官の議奏に、越前國守従四位下紀朝臣末成等解■。加賀郡遠去國府。往還不便。雪零風起。難苦殊甚。加之途路之中有四大川。毎遇洪水。經日難渉。人馬阻絶。動為壅滞。叉郡司郷長任意侵漁。民懐冤屈。路遠無訴不堪深酷。逃散者衆云々。伏請別建件國。名曰加賀國者。とありて、水害の為に越前の部内を割きて、加賀國を置かれたり。四大河は加賀の手取川に、越前の白鬼女・足羽・船橋の三川との四大河ならんといへれど、犀川なども水害の一川ともいふべし。此の川はさせる大河にはあらずといへども、甚だ敷荒川にて水源遠からざるゆゑ、雪解甚だしく、雨の時も出水速かにして横流する事、大河よりも甚だしといへり。されば加賀建國以前の上代は勿論、中古とても天正以前の乱世打継きける頃など、堤防の手入方も行届かず。洪水毎に河水横流し、いかばかりの水害をなしたるやも知るべからず。今小立野と野田寺町との地景を見ても、其の間なる町地は都て河中なりし事知られけり。拾纂名言記に、昔は犀川二瀬に分れ、一瀬は今香林坊の橋下を流れ、殊に水深きに依りて船なども入りたり。然るを金澤の町地を廣く成さんが為めに、坂井就安へ命ぜられ、犀川の上を掘りて一瀬となしけるに、俣川あせたり。依之中嶋をば町地と成したり。今の河原町是也。とあり。坂井就安は小瀬甫庵の長男にて、元和元年に利常卿召抱えられ、二百石を賜はり、寛永十五年に歿すと小瀬譜に見えたれば、犀川川上の河中を掘りて一瀬となし、堤防を築き、河原をば町地となしたるは、元和年中の事なるべし。されば古川除は、此の時坂井就安が築かせたる堤防なること知られけり。或は曰ふ。昔此の川除町なる堤防を築きたる頃、本多氏先祖安房守政重の指圖にて、小立野の山土を運送せしめ、之を以て築かしめられたり。山土は水害を防ぐものなる故なり。依りて今も古川除町地の井戸を掘るに、必す赤き山土出づるといへり。一説には、今小立野の土取場は、即ち右川普請の時山土を取りたる地にて、古川除の山土は土取場邊より運送せし土なり。土取場の地名は此の時より起るとも、叉惣構堀出来の時よりの遺名なりともいへり。叉今の川縁往来なる堤防は、川除町の堤防とは遙か後に築きたる故に新川除といへり。此の堤防は、明和二年の山伏寳高寺由緒書に、享保年中までは法然寺近邊まで川原にて、家建も甚だまばらなるを、享保十年比より新地子地と成り、追々町家を建て、今の如き町立出来すとあり。されば享保年中に、古川除の外なる河原に更に築出し、新川除の堤防を築き、古川除との間なる地面をば町地となし、町家を建てしめられしこと知られけり。是今いふ犀川川除なり。犀川の堤防は、もと既に洪水の為め河中と成りにし地をば堤防にて防ぎ、町地となしけるがゆゑに、洪水の為やゝもすれば堤防を破壊し、町地へ横流して人家を損害する事、むかしより度々なりといへり。菅家見聞集に、寛文八年六月十一日夜大雨、十二日朝六つ時下刻より犀川・淺野川洪水。犀川川除切れ、新竪町之上より水押出で、竪町を經、河原町に出で、町屋悉く水付く。此時川除に居住する家百餘軒流失、人多く死す。とありて、此の時櫻畑の下に小橋を初めて架けられしかど、右洪水にて押流し、川除裁許時目忠兵衞と云ふ者溺死せり。是より後にも水事の事度々なるべし。輓近天明三年七月十一日の洪水の事は、天明水難記に記載せらる。近くは明治七年七月七日及び同九年八月八日の洪水などの時も、川上藤棚の川除を破壊せしゆゑ、河水横流して川上の町々を經、新竪町・本竪町・大工町・河原町など水中と成りて、水害を蒙れり。是皆堤防の破壊せしゆゑ也。されば犀川の堤防は甚だ鄭重に念を入れ、嚴重にすべき事なりといへり。とあり。

○土川除
延寳の金澤圖に、今いふ川上新町の上、藤棚の邊より犀川の河中に川除の形を描き、上川除と記載す。是今の川縁なる堤防なるべし。改作所舊記に載せたる、元禄十四年五月上野村十右衞門より川除奉行への願書に、石川郡笠舞村領續覺源寺前より上町川除之前通、先年御郡川除声之虚、右之内七拾間程之間川付寄崩れ、今程此所川除より内町家に罷成り、笠舞村田地に構無之間、向後町川除御支配罷成棟被エ仰付可被下。とあり。

○油瀬木
覚瀕専管寺地の見地なる川陰に水戸口を付け、犀川より用水を取れり。此の水戸口をば古来油瀬木と呼べり。此の用水は旦蕃川と称し、下流は首姓町へ出で、麟町にて倉月用水へ合し、油車へ出づるなり。舊傳に云ふ。昔油屋源兵衞といふ者、今いふ油車の地に初めて水車を取立て、燈油を製造す。其の頃倉月用水のみにては水勢強からず、水車の廻りあしきとて、更に犀川の水をせき入れたしとの願にて、水戸口を付け用水を取りたり。油車の為にせきたる水戸口なるにより、世人油瀬木と呼べり。その用水をも源兵衞川と俗稱せしを、後人呼び誤つて玄蕃川と呼べりと云ふ。按ずるに、油車の地に水車を設け、水碓を建て、燈油を製造し初めたるは、正保年中の事にて、水車を創立せしは油屋與助といふものなり。是今竪町に油商賣する多田源兵衞が先祖なり。油瀬木は實に源兵衞が祖先與助の、水戸口を付け川水をせき入れたるがゆゑに、後々までも多田氏より水戸口の掃除をなし来れりといへり。

○藤棚成福寺門前
成福寺は山伏にて、藤棚白山社の別當なり。此の門前地なりしゆゑに、藤棚成福寺門前と呼びたりしかど、今は藤棚とのみ呼べり。

○藤 棚
川上白山社の境内に、そのかみ藤棚あり。故に世人此の地邊をば藤棚と呼べり。然るを明治四年四月戸籍編成町名改正の時、社邊の数戸に藤棚の町名を立てたり。

○藤棚白山神社
此の社は、藤棚邊三百三十餘戸の産土神にて、従前は山伏成福寺世々奉仕す。此の社は舊社にも非ず。此の地邊むかしは河原なりしを、享保の頃築出し町地と成したる頃、山伏成福寺此の地に白山社を創立して別當と成り、元より氏子もなき社なりしかど、其の後石浦神社の氏子當社を信仰して氏子となり、今日に至れりと云へり。明治二年神佛混淆御廃止に付き、別當成福寺復飾して神職と成り、同五年十一月村社に列せられ、祠掌を置かれたり。然るに同十八年四月八日の夜、犀川洪水の為め社地過半欠けて水中と成り、本殿等流失す。依りて其の後社地を移轉し、今は川上新町に社殿を造営なしたり。その舊社地は全く川中と成りたり。

○藤棚之藤
此の藤は、従前は藤棚白山社の社前にありて、世人藤棚の藤と呼べり。堀樗庵の三州奇談に、犀川の上覺源寺といふ寺の門を過ぎて向うに藤の花多く咲く宮あり。と載せたり。三州奇談は明和・安永頃の筆記なれば、其の時代はいまだ藤棚の名稱もなかりしゆゑに、藤の花咲く宮とは載せたるなるべし。後には名に聞えたる藤なりしかど、明治十八年の水害にかゝり、今は藤棚の遺名を稱するのみ。


金澤古蹟志巻十六巻

  城南片町傳馬町筋

○片 町
此の町は、十二冊定書に載せたる金澤通町筋町割付に、片町二町三十三間三尺。とありて、舊藩中は本町廿七町の一町なり。舊傳に云ふ。昔犀川横流し、此の地邊河原の中嶋なりし頃は漸く片側に掛作りして商店をなしたり。故に片町の町名起りたりと。按ずるに、堂後屋傳来停来の元和元年八月利光卿の印書に、片町どしりや太左衞門と載せ給へり。元和以前より片町と呼びたる事知られけり。龜尾記に、片町はいにしへ尾坂下にありて、共の頃一方は城郭にて、南側のみ町家ありしゆゑに片町と名付く。然るを慶長七年に今の片町の地へ移轉し、舊名に據りて片町と呼べりと記載す。按ずるに、此の傳説は過聞なるべし。堂後屋傳記に、元祖三郎右衞門能州宇出津より天正十年に金澤へ出で、城邊米町に居住す。後藩の用地と成り、片町轉地命ぜらるとあり。されば最前居住しける城邊の町地は米町と呼びて、そのかみ米商人共居住せし地にて、尾坂下也といへり。龜尾記は此の傳説をば過聞せしもの也と聞ゆ。楠肇が記せし小橋天神記にも、是まで川原なりし所へ民屋を移し、其の後地には寺庵を移し給ひ、寸地も残らず比隣建てつらなりしかば、俗呼んで川原町といひ、民家の片邊に立てつゞきたる所を片町など呼べり云々。とあり。おもふに、片町は今いふ片原町の意にて、本名は河原町なりとの説、さもあるべし。

○香林坊橋
金澤橋梁記にも香林坊橋。と載せたり。楠肇が記せる小橋天神記に、今の香林坊橋をば小橋といひ、一名を道安橋とも號す。昔は犀川二流に流れて、大流に渡せるを大橋といひ、小流に懸けしを小橋と號す。然るを寛永八年の夏、府下火災以後城下の町街を改め給ふ時、犀川を南北の岸へ一流に流(←あしへん)し、小流は即ち惣構の堀つゞきに用ひ給へり。叉一名道安橋と稱するは、小橋天神の社僧道安の橋側に住みける故なり。叉香林坊橋と稱するは、そのかみ高野山の宿坊に光林坊といへるありて、此の小橋の邊に居住す。故に世俗呼んで光林坊の橋と呼べり。今も此の橋の南側に香林坊某とて、其の末裔の町家あり。國君の諱を避けて、今は香林坊と字を換へしといへり。平次按ずるに、拾纂名言記に、昔は犀川二瀬に流れ、一瀬は香林坊際の小橋の下を流れ、其の流深く船など入りたり。と見えたり。此の橋は今は倉月用水川の橋と成り、従前は六間なりしを、廃藩の後橋際を築き出し、橋を縮め四間となし、土橋となしたり。

○犀川小橋天神舊地
古寺町小橋天神縁起に云ふ。當社尊影。厥初鎮座河北郡吉倉邑。前社僧道安随託宣之告。而勧請本府河原町小橋之側。此時此地民居未満十室。實僻陋寂寞之境也。然安造建社壇。結構殿舎。荘厳甚盛。世人稱小橋天神云々と。また同神社別来由書にも、往昔加州河北郡吉倉云所鎮座之處。依託宣乃勧請川原町小橋之爪。民屋未満十軒之時。道安社殿建立。俗呼祟小橋天神。とありて、此の頃の社地は今の香林坊橋の高、石浦町入口なる大神宮の地是なりといひ傳へたり。元禄三年の由来書に、四代以前道安霊夢を蒙り、香林坊小橋々爪河原に奉遷處、其の頃近郷は河原にて、僅かに家居十軒許有之處、追々家数相増申候付、春秋祭礼之儀式を成したり。とあり。右犀川小橋の爪に社殿を造立せしは、慶長二年なりともいへり。貞享二年の由来書には、其の先き犀川野町神明之向に鎮座之處、大坂陣之時御城御局方社参有之、御立願之祈祷被仰付。利常卿目出度御帰陣に付、浅野将監・石川茂平両人を以て、御報賽之御神事被仰付。慶長十九年に河原町小橋爪へ社地移轉被融付、社殿造営之處、寛永十三年金澤町割被仰付、町筋に相成るに付、古寺町今之宮地へ再轉被仰付。と載せたり。両傳説いづれか是ならん。扱犀川小橋の名は、前顕拾纂名言記等に載せたる傳説の如く、犀川二瀬に分れ、両橋を架けたりし故、大橋と小橋とは呼べり。元和九年十一月廿七日利光卿印書に、元和九年分才川小橋々下木町地子銀の事を載せ給へり。されば此の時代犀川小橋と稱せし事知るべし。